「クスリをやられた」訪問先で出されたお茶、口を付けた女性看護師は意識障害に…訪問医療に潜む、患者家族の暴力・ハラスメント

医師射殺立てこもりの現場となった埼玉県ふじみ野市の住宅

 2013年、神戸市にある北須磨訪問看護・リハビリセンター。患者宅での訪問看護を終えて事業所に戻ってきた30代の女性看護師は、いつもと明らかに様子が違っていた。酒に酔ったような足取りで室内を歩き回り、上機嫌で職員に話しかける。ふざけているのだろうと初めは笑って見ていた所長の藤田愛さん(57)だったが、かみ合わない会話に「クスリをやられた」と直感した。
 在宅医療を担う医療従事者が、訪問先の患者らから暴力やハラスメントを受けている。その被害は深刻だ。2022年1月には、医師が埼玉県ふじみ野市にある住宅に呼び出され、担当していた高齢女性の息子に散弾銃で撃たれて死亡している。医療従事者の安全をどう守るべきか。長年、この問題に取り組んできた所長の藤田さんに、現状と課題を聞いた。(共同通信=櫛部紗永)

医師射殺立てこもり事件で起訴された渡辺宏被告

 ▽訪問先で執拗に勧められたお茶
 様子がおかしくなった女性看護師は、その患者宅を半年前から訪問していた。実は、訪問を始めてからの半年間にも体調の異変はあった。藤田さんは他の職員から「看護師の様子がおかしい」と連絡を受けていた。看護師に確認すると、返答は「風邪気味だから大丈夫です」。口調も明るい。休養するよう伝えたが、それ以上のリスクを予測できなかった。担当の変更などはせず、この日も看護師をそのまま送り出していた。
 看護師に後で確認したところ、訪問先で夫婦の家族だという男性からお茶を出され、飲んだという。規定では訪問先で出された飲食物を口にしてはいけないとなっている。看護師もいったんは断ったものの、温め直しをされ、何度も勧められていた。季節は冬。「相手を傷つけてしまうかもしれない」。せっかくの厚意をむげにできなかったという。
 戻ってきた看護師は、意識障害を起こして緊急入院となった。点滴を打ったが、目を覚ましては起き上がろうとしたり、幻覚のせいか手を振り回して暴れたりした。「休んでいて」と落ち着かせたが、「所長すみません」とろれつが回らないまま、うわごとのように繰り返した。
 センターに対する説明では、この住宅は訪問介護を利用する妻と、夫の2人暮らしのはず。お茶を勧めた男性が同居していることは知らされていなかった。初回訪問時も姿は確認できていない。警察に通報したが、治療の後だったため証拠が足りず立件には至らなかった。この男性が違法薬物を取り扱ったとする罪で執行猶予中だったことを警察から聞いたのは、ずいぶん後のことだ。

 

 

訪問看護先で作業する藤田さん

 ▽「職員を守れなかった」
 女性看護師が心身ともに回復するまで、数カ月かかった。藤田さんは「職員を守り切れなかった」と悔やんだ。しかし、周囲の反応は違っていた。「助かったのだからそんなに騒がなくても」「お茶を飲んだのなら自業自得」。被害から目を背け、問題視することを避けるような意見が少なくない。対策の必要性を痛感し、声を上げようと決めた。
 まずは実態を知るため、2016年、神戸市看護大とともに兵庫県内の訪問看護師を対象に調査を実施した。回答した358人のうち、患者や家族による暴力やハラスメントを経験していたのは、約半数。「つえで殴られた」「『ばか女死ね』と言われた」「抱きつかれた」。多くの看護師が訪問先で理不尽な目に遭っていた。当時は訪問看護現場の暴力を調べた例が少なく、実態を可視化する貴重な資料となった。
 2017年には兵庫県と実務者らが協議する検討会を立ち上げ、看護師が複数で訪問する場合の経費補助の予算化など、全国に先駆けた取り組みを実現。ハラスメント行為をイラストで記したチラシも作成し、患者側にも利用時の注意を呼びかけた。問題意識が浸透し、支援に動く自治体も次第に増え始めた。
 ただ、藤田さんはその後、被害根絶の難しさを痛感することとなる。被害に遭ったのは、藤田さん本人だった。
 2018年の出来事だった。「体調が優れない」。昼間に訪問した70代の男性患者からの電話を受け、藤田さんは再度深夜に自宅へ向かった。車いすに座ってもらった状態で血圧を測っていると、突然体に覆いかぶさられ、性的な言葉をかけられた。「なんとかして外に出なくては」。気付くと玄関に向かって夢中で逃げ出していた。あまりの衝撃に、その後のやりとりは記憶していない。

 

暴力、ハラスメント対策について語る藤田愛さん

 ▽患者との近い距離、危険の予測は困難
 これまでさまざまな対策を講じてきたが、現在も藤田さんの周囲では暴力やハラスメントは後を絶たない。センターの利用者に注意を促すことも少なくないという。
 藤田さんは、その背景を「現場で瞬時に状況を見極める難しさがある」とみている。患者の身の回りをサポートする訪問看護は、病院に比べて患者との距離が近い。身体的接触が多いため、突然の暴力を予測することは困難だ。精神的なケアも求められることから、ハラスメントのリスクを見失いがちになる。医療従事者側が「病気だから仕方がない」「患者を悪く言えない」と受け入れてしまうケースも多い。
 生活の場である住宅内には凶器になりうる物が日常的に置かれ、時に逃げ場のない密室空間となる。そんなリスクが潜む現場で安全を確保するには、どうすればよいのか。医療従事者の安全に詳しい関西医科大の三木明子教授に尋ねた。
 「訪問医療は患者と医療従事者の信頼関係の上に成り立っている。患者の多くは善良だが、過度な要求には慎重に対応するべきだ」
 三木教授は、訪問前に危険を感じた場合、事前に警察へ相談することやオンラインでの訪問を推奨している。2人以上での訪問も有効で、人手不足の中においては同行者を医療従事者に限る必要はないという。
 「被害はどの地域でも起こり得る。各自治体がいざという時に迅速に対応できる体制を整え、警察や警備会社といった関係機関との情報共有や連携を深めることが被害の最小化につながる」

 

関西医科大の三木明子教授

 ▽国や自治体の対策強化が必須
 活動の原点にあるのは、女性看護師が復帰した時に交わした約束だ。「私は看護が好きだから辞めません。所長も辞めないでください。同じような被害者が出ないように頑張ってほしいんです」。責任を感じていた時期に、退職を思いとどまらせた言葉だった。
 藤田さんは現在、全国で訪問看護師らを対象にした研修会を実施。どこからが暴力やハラスメントかを考えてもらい、具体的な訪問場面を想定したグループワークを行っている。「ケアの提供と暴力の容認は違う」と強調し、被害に苦しむ看護師らには経験をもとに親身にアドバイスをする。
 「看護師個人や事業者任せでは限界がある。被害を風化させないためにも、国や自治体は全力を尽くしてほしい。行政が予防対策に力を入れ、問題を広く共有しなければ、暴力はまた繰り返される」

© 一般社団法人共同通信社