大分県知事選挙/地方自治闊達な地で繰り広げられる互角の戦い 『Gの系譜(3)~歴史からひもとく注目の知事選~』(歴史家・評論家 八幡和郎)

知られざる「Governor(知事)」たちの権力闘争の歴史を八幡和郎氏が徹底解説するシリーズ。最終回となる今回のテーマは大分県知事選挙です(文中は敬称略です)。 

「一村一品」の夢と現実的軌道修正のあと

大分知事選挙には、前の参議院議員で無所属・新人の安達澄(53)と前の大分市長で無所属・新人の佐藤樹一郎(65)の2人が出馬し、一騎打ちとなっている。

大分県知事と言えば、現在の広瀬勝貞(2003年就任)の前任者である平松守彦(1979年就任)が、「一村一品運動」などで全国的知名度を誇り、マハルティール首相のマレーシアなど海外でも採り入れられた。

平松知事は6期24年在任して、通商産業省(現経済産業省)の後輩である広瀬知事に禅譲した。広瀬は5期20年つとめたのち、後継者指名はしなかったし、選挙運動にも積極的にはかかわっていないが、やはり経済産業省の後輩である佐藤樹一郎候補(前大分市長)が後継候補とみなされている。

とはいっても、平松、広瀬、佐藤の3人はキャラクターがまったく似ていない。また、三人とも落下傘候補として知事選挙に出たのではなく、平松は立木勝知事(1971年就任)の珊瑚の任期にあって後継者含みの副知事を務め、広瀬は父親が地元で代議士を務めていた広瀬正雄の子息であるから地元の事情に詳しく、佐藤は知事選立候補に先立って二期にわたって大分市長だったから、それぞれ、自分の大分県政についての確立した考え方をもって知事になった、あるいは、なろうとしている

逆に、安達は広瀬がかなり軌道修正した「一村一品運動」の復活のような方向を目指す発言もしており、ある意味において、平松が知事だった時代に。小学校高学年から高校まで地元で育った人らしい影響を受けているようで平松チルドレンという一面もありそうだ

また、広瀬や佐藤が政党などとの調整にも重点を置くのに対して、安達は「県民の方だけを見る」(大分合同新聞主催の立候補予定者討論会での発言)として県議会や政党の意見に配慮する必要はないと正面から挑戦状をたたきつけているのも面白いところだ。

平松は別に県議会や政党を無視したわけでなく、したたかさも十分に持ち合わせていたが、ある種の独裁者型の知事だったことは間違いない。安達はそうした強いリーダーを目指しているようなのだが、普通は、当選してから人事や予算で県議会や政党が抵抗勢力化したときに初めて「民意は我にあり」路線に走るのが普通だから大胆だ。

フットワークの良さが際立った佐藤市政ときまじめさ

佐藤樹一郎は、1957年生まれで、地元の高校を卒業したのが、平松の副知事就任の年である。東京大学法学部から通商産業省に入省し、米国に二度勤務し、中小企業庁次長で退官し、JSR(化学工業の企業)に再就職したのち大分市長選挙に当選した。

大分市長としては、きめ細かく、しかも、全国で前例のない施策も広瀬知事との良好な関係も生かしながら霞ヶ関を説得して実現し、抜群のフットワークを見せ、とくに新型コロナ対策の充実は全国でも屈指の成功例と評価されている。たとえば、駅前に抗原検査センターを設置したとか、初期に感染者が立ち寄った店の名前を公表して疑心暗鬼が広がるのを防いだとか賛否両論あったが官僚らしからぬ対応だった。

また、グリーンスローモビリティ、OITAサイクルフェアなど環境対策や子育て対策、津波対策などもユニークだ。進出大企業の経営トップとの対話を通じて企業流出が起きないように先手を打っていくとか海外の企業との連携などの試みは他の首長もみならうべきものだ。

 一方、安達澄は別府市の生まれで、上智大学法学部を卒業して、7年間、当時の新日鉄に勤めたが、朝日新聞社に転じて12年間、在職し、その間にアイルランドで研修している。その後、2015年の別府市長選挙に立候補したが敗北し、旅行会社を設立した。しかし、すぐに2019年の参議院選挙に野党統一候補として立候補し番狂わせといわれる見事な当選をしたことは、政治家としての才能に光るものがあったがゆえである。

今回の戦いは、普通に考えれば、県内17市町村長のすべてなど各種団体の支援を受け、自民党と公明党がついて、連合や立憲民主党は中立というのだから、佐藤が圧倒的に優位のはずである。ただ、落とし穴のひとつは、自民色が強まると、連合や立憲民主党から反発されることだ。

とくに、安達が参議院議員を任期途中で辞めて立候補したことに伴って、補欠選挙が4月23日に行われることになっており、自民党としては自民色を佐藤に取って参議院補選の勝利を期したいところであるし、野党は自民と同じ候補に相乗りしている印象を避けたいところだ。

佐藤は大分市長時代も労組と関係良好で、市役所の労働組合も知事選挙で佐藤支持だし、連合もかつて自分たちが参議院に押し上げた安達につかず中立なのだが、佐藤の決起大会に自民党の茂木充満幹事長が出席したことから、連合が佐藤に自民色を強くしないように注文を出したりしている。

安達の若々しさは魅力だが具体性と実務には課題

安達には年齢に比しても若々しくイケメンで弁舌爽やかなことで、浮動票を集める力があるし、参議院の議席を任期途中で投げ出すことへの批判はあるが、四年前に全県を範囲とした選挙をしたことは、大分市での選挙しかしていない佐藤より有利である。

広瀬県政にしても、佐藤市政にしても、官僚的で後ろ向きなわけでなく、とくに佐藤のフットワークの良さは定評があるから、安達の批判は、経歴などについての印象論に留まり、具体性がないのだが物足りないが、一定の支持は引き出せている。

安達は現場主義で、市民の声を聞き政策を展開すると言い、人づくりがなにより大事だといった主張をするが、すでに参議院議員を四年間も務めていてそのチャンスは十分にあったはずで、知事になってから声を聞くまでもないはずで、政策に具体性がもうひとつともいえる。

民間出身者として経営感覚の重要性を主張するが、小さな旅行会社経営を短期間しただけで、それなりの企業で従業員を抱えていたのでないから、経営者としての経験のなさは不安材料である。

かつて、平松と同じ時代に人気があった橋本大二郎高知県知事のもとで汚職事件があったときに、私が平松と話していたら、「県庁内の実務は苦手だからといって人にまかしておくとああいうことになるのだからダメなんだ」と厳しく批判するのを聞いたが、知事は実務者でもあり、実務は官僚にまかすでは成功しない

平松知事時代の「一村一品運動」などの草の根的な地域作りとかは精神運動としては成功したが、実質的な成果に結びつけるためには、「選択と集中」も必要だというので軌道修正したのが広瀬県政だから、平松路線の復活を主張するなら、その成功と物足りなさ、広瀬による軌道修正のどこが足りなかったのかを踏まえてどういう新機軸を打ち出すのか、具体的提案が欲しいところだ。

また、広瀬県政や佐藤市政では、ポピュリスト的人気取りに傾かず、実質的でコスパの良い政策展開がされたが、よその県がやっているのにしなかった政策があって一部の市民から不満があったいうなら、その不満が正当なのか判断を示したうえで批判したほうが説得的だ。

もちろん知事の引退というチャンスは滅多にないからいま行動しなければというのは現実だが、まだ若いのだから、国会議員として要職につくとか、市町村長でも経験して、実績を積んでからなら、カリスマ性は十分だからもっとよいのにという印象はあるが、未知数の魅力に賭けたい人もいると思う。

一方、佐藤の戦いの課題を考えると、実績と実力で負けないということに頼らず、スタイリストなどつけてイメージ戦略に力を入れるとか、安達の攻撃に細かく丁寧に説明するより、もっとシンプルに反撃した方が印象は良いように思う。

たとえば、佐藤は平松が推進したが事実上棚上げになっている豊予海峡に橋かトンネルを建設するというプロジェクトを長期的に推進する姿勢だが、安達は県民からの要望がさしあたって低いと批判する。討論会で佐藤はそれに緻密に反論していて内容はもっともだったが、「政治家は将来の大きな夢も育てるべきだし、さしあたって負担が出る話ではない」と言えば十分な話で細かい反論は、必要ないように見えた。

現在のところ、両候補とも持ち味を生かして、佐藤は地道に支持を広げているし、安達も善戦で予断を許さない。世論調査によっても違うが、OBSが報道した数字では、佐藤が先行しているものの、安達は立憲民主支持層の6割に支持され、浮動票では拮抗しているし、10代・20代にも強く、地域的には大分市内では佐藤優位だが、別府や県北部などでは競り合っているという。

地方の時代の平松と実質主義の広瀬

さて、今回の知事選挙についての印象は以上の通りだが、以下、順序が逆だが、戦後の大分県政の歩みを、広瀬現知事の登場まで簡単に振り返っておこう。

最初の公選知事に当選したのは、終戦の年の十月から官選知事をつとめていた細田徳壽(1947就任)であった。茨城県生まれで人格は温和であった。細田は二期つとめ治山治水事業に功績があった。台風被害を克服し、水力発電も推進したが、保守党派間の政争に巻き込まれ、1955年の選挙では民主党の支持は得たものの、自由党は県会議長の岩崎貢を支持し、社会党の推す木下郁(1955就任)に敗れた。

木下は宇佐の安心院の名家出身で、父は県会議長、叔父は代議士だった。東京大学法学部を卒業したあと、ドイツ、イギリス、アメリカに留学し弁護士となった。戦前の翼賛選挙で代議士となり、戦後は大分市長となった。社会党に入党したが、翼賛代議士としての経歴から公職追放になり、追放解除後は代議士をつとめていた。

木下は4期知事をつとめたが、鶴崎の臨海工業地帯の造成や新日鐵の工場立地、新産業都市指定で大分は工業都市として飛躍した。全国初の敬老年金制度も功績である。

立木勝(1971年就任)は東京大学法学部を卒業後、東京市役所や朝鮮半島で働いていたが、戦後は大分市の助役になった。総務部長、出納長、副知事として木下を実務で支えた。公害問題が大きくクローズアップされ、埋め立てにうちて激しい反対運動があり、再選時には木下の下で出納長をつとめた田尻一雄が革新系から出て大接戦だった。このころ、社会党の市議、県議、代議士として活躍したのが、後に首相となる村山富市である。

平松守彦(1979年就任)は東京大学法学部卒業ののち商工省に採用されたが、採用担当課長が、城山三郎の『官僚たちの夏』のモデルとしても知られる佐橋滋(のちに事務次官)で、その後も佐橋の薫陶を受け、佐橋門下の青年将校的存在だった。

「日本列島改造論」の申し子として国土庁が発足したときには地方振興局担当の官房審議官として出向したが、立木知事から副知事に誘われ大分に帰った。持ち前の行動力とコピーライター的才能で、大分県のセールスマンとして産品や工場誘致の売り込み、陳情、マスコミ対策などに奔走し、知事としての新しいスタイルを示して全国的に注目され、九州府構想、テクノポリスの誘致と新空港に近い国東半島へのIT企業立地などで「地方の時代」の看板的存在となった。

平松の花道となったのは、2002年ワールドカップの開催であった。平松は各都道府県による誘致合戦のムードメーカーという役割も果たし、そのために、日韓共同開催ということになり会場を絞り込まざるを得なくなったときにも、大分は鹿島と並んで、功労者として特別扱いされたほどである。ただ、平松の強引さや大型事業が成功したものばかりでなかったこともあり、多くの人が最後の1期はやめるべきだったと考えている。

平松引退を受けて、同じ通商産業省出身で事務次官をつとめた広瀬勝貞(2003年就任)と吉良州司との激しい争いとなり、吉良が善戦したが広瀬が勝利した。

広瀬は幕末に天領日田で咸宜園を開いた広瀬淡窓の弟・広瀬久兵衛の末裔であり、父は郵政大臣、兄はテレビ朝日社長というサラブレッドだが、聞き上手でもあり、県民に信頼され高い支持率を誇った。

意外なことだが、現在の47都道府県の知事の中で、事務次官経験者は広瀬が唯一の存在であるとか、宮沢喜一首相秘書官だったとか、夫人は林義郎元蔵相の妹(林芳正外相の叔母)など抜群のネットワークも広さも力となった。

平松知事の遺産のなかには、気宇壮大だが、さしあたっての現実との齟齬が目立つものもあり、広瀬は傷口が大きくならないうちに手を打つことにつとめた。豊予海峡横断橋構想など、長い目で見れば合理性があるにせよ、現下の政治情勢のなかでは、運動を進めても早い時期での実現は困難なものへの関与は、スローダウンした。

行財政改革、教育改革、工場誘致、市町村合併、インフラ整備などに着実な成果が出て、地方の時代といったスローガンよりは実質的な成果を重視するようになった21世紀の地方自治の全国的な流れのなかでの成功者だったとしたと評価は高い。

=完 

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