住みたい街上位の武蔵小杉に謀略渦巻く「徳川将軍御殿」があった 波乱に富む本多正信の人生

住みたい街ランキング上位の常連・神奈川県の武蔵小杉には、かつて謀略が渦巻いた徳川将軍御殿があった。

現在、NHKの大河ドラマ『どうする家康』が放送されている。嵐の松本潤が演じる徳川家康の家臣団の中で一番の嫌われ者が、松山ケンイチが演じる本多正信だ。ドラマで正信は三河一向一揆の参謀役として家康に反旗を翻し、鎮圧後は三河を追放となっている。史実ではその後許されて帰参するが、家康にとりなしたのは大久保忠世といわれている。正信が江戸開府後には老中として権力を振るようになったのは忠世のおかげだ。

ドラマでも描かれているように正信はけんのんで深慮遠謀の人である。よく言えば遠い先のことまで深く考えているが、悪くいえば腹黒い性格だ。その腹黒さゆえに恩人である忠世の長男・大久保忠隣を陥れたという話がある。忠隣自身も、正信が三河追放中、その妻子の面倒をみていたという。

1600年の関ケ原の戦いのときから正信と忠隣の関係はギクシャクし始めている。正信と忠隣は東軍の主力を率いた徳川秀忠に従い中山道をひたすら進んでいた。途中で信濃の上田城に籠城する真田昌幸を巡って意見が対立。さらに、1610年、老中に就任し2代将軍・徳川秀忠を支える立場になった忠隣に対し、正信は結城秀康を推したことで対立は激化していった。

そんな折り、正信は「大久保忠隣が大坂城・豊臣秀頼に内通している」という浪人・馬場八左衛門からの密告を受け、江戸から駿府に帰国する途中の大御所・家康に報告した。この馬場八左衛門は旧武田家の穴山玄蕃守信君(梅雪)の家老だった人物で後に手のひらを返して、虚言だったと明かしている。だが、この相手を追い落とす千載一遇のチャンスを正信は逃さなかった。

家康がこの報告を受け、江戸城から急ぎ駆けつけた秀忠と処遇を巡って謀略を協議した場所が小杉御殿だ。このときは不問になったかにみえたが、実は違っていた。忠隣はキリシタン鎮圧のため大坂へ赴いたところを、突如改易を言い渡され、居城だった小田原城も本丸以外は壊されてしまったのだ。

忠隣は近江に配流されて、井伊直孝に預けられ5000石の知行地を与えられるのみとなった。その後、天海僧正を通じて、家康に弁明書を提出したが、75歳で死去するまでは許されなかった。小田原6万5000石の譜代大名としてはあわれな最期だった。

だが、親の因果が子に報い―の例えもある。正信の息子・正純は宇都宮15万5000石の加増をされたが、秀忠の逆鱗(げきりん)に触れて改易となり、知行1000石のみを与えられて出羽国由利に幽閉の身となっている。屋敷は逃亡防止のため板戸ですべて掩われたいたという。

今は首都圏屈指の住みたい街となった場所にあった小杉御殿は、跡地にある御蔵稲荷神社、御主殿稲荷神社、陣屋稲荷神社と西明寺門前に建立された碑を残すのみ。謀略の地である面影はどこにもない。

(デイリースポーツ・今野 良彦)

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