【特別寄稿】パチンコ産業の歴史⑬ 社会的不適合機の撤去(WEB版)/鈴木政博

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味において「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。 ※この原稿は2011年6月号に掲載していた「パチンコ産業の歴史⑬」を一部加筆・修正したものです。

1. 普及速度が加速しないCR機
鳴り物入りで登場したCR機であったが「導入コスト・ランニングコストが高額」であり、さらに「スペックの弱さ」が致命的で、まったく市場には普及しない状況が続いた。「確率変動機能搭載」ではあるものの、確変突入率は15分の2から良くて5分の1、確変突入後も確変継続率は変わらない。確変中の大当たり確率も3~5倍程度しかアップせず、しかもその大半は電チュー非搭載機種で確変中も玉が減っていく。それ以前に、市場には「保留玉連チャン現金機」があふれていた。これではCRを導入するメリットがホールにはほとんどない。

ただし「連チャン現金機」は、保通協で適合した遊技機とはいえ、完全に合法機かといわれれば極めてグレーゾーンに近いものであった。行政としても、CRの普及はさておいても「連チャン現金機」はそのまま放置できるものではなかった。日工組としても1993年7月に一部機種の販売自粛、1993年10月15日には同年3月31日以前に申請された連チャン機の受注は10月23日まで、出荷は11月6日までとすることを決めた。さらには「ダービー物語事件」が発生。CR導入推進への行政の本気度を感じ取った日工組は、翌1994年にCR機の内規を緩和。確率変動は10倍アップまでで最高50分の1まで、さらに一度確変に入れば次の次の大当たりまで確変が続く「2回ループ」を認めた。そしてソフィア・西陣製「CR花満開」が誕生した。

この「CR花満開」は一部のCR導入を推進するホールなどに設置され、かなりの人気を博す。ただし、その勢いは限定的であった。確かに、今までのように「現金機の使える新機種」は出てこない。この頃、私はホールで仕事をしていたが、やってくるメーカーの営業マンは「○○○の新セルが出ました!」などの繰り返しで、持ってくる遊技機カタログは以前の遊技機の新セルばかりという状況だった。1年間程度の現金機の新台ブランクがあり、その後も出てくるのはCR機が中心となっていく。しかし、それでも多くのホールは「CR機導入」には一気には傾かなかった。

なぜなら、その頃のホールの設置機種には「絶対に外すにはいかない遊技機」が錚々たるラインナップで設置されていたからだ。当時の一般的なホールの設置状況は「フィーバーパワフルⅢ」2列、「麻雀物語」2列、「フィーバークィーンⅡ」2列、「ダイナマイト」2列、「ソルジャー」2列、「アレジン」2列、「エキサイト」2列…。その他にも「フルーツパンチ」「アレンジマン」「エキサイトジャック」「キューティーバニー」など、まさに名機中の名機といわれた機械が数多く市場に現存していた。CR機を導入するということは、これらの機械を外すことに他ならない。あえて導入コストをかけてまで、名機を撤去してCR導入を検討するホールは、やはり圧倒的に少数派であった。

2. 社会的不適合機の撤去
1995年、年末。日遊協内に「遊技機のあり方に関する検討委員会」が設置される。全日遊連、日工組、日電協、日遊協で構成される「遊技業2001年会」から8委員が選出され、適度な射幸性について検討が行われた。その結果として「社会的不適合機」の選定と、これらの自主撤去が決定された。詳細は別表をご覧いただきたいが、後に追加された分も合わせて最終的には全108機種、全国の設置総台数は約70万台と、極めて大規模な自主撤去となった。

1996年9月12日決定、同10月1日に発表されたのは「第一次社会的不適合機」を1997年1月末までに撤去、「第二次社会的不適合機」を同5月末までに撤去、「第三次社会的不適合機」を同9月末までに撤去する、というものだ。さらに1997年9月の理事会で決定した「第四次社会的不適合機」も同10月1日に発表され、翌年1月末までの撤去を決定している。

これは検定取り消しではなく、あくまで「自主撤去」のため、完全に全国のホールが全てを遵守して撤去したわけではなかった。しかし、ほとんどのホールがこの決定に従い撤去を進めていく。代替機は「CR・黄門ちゃま2」「CRバトルヒーローV」などを代表とする「CR・2回ループ機」であった。この「社会的不適合機」の撤去により、CRの導入は一気に急加速した。ただし、当時から既に「CRの2回ループ機の方が、撤去した社会的不適合機より射幸性が高い」という矛盾点は問題視され始めていた。

■参考資料 第一次社会的不適合機~第四次社会的不適合機リスト~

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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