ハーフナー・マイクが明かす「神戸で成功できなかったワケ」「日本人FWが海外で2列目になってしまう事情」

今年1月に現役引退を発表した元日本代表FWハーフナー・マイクさん。国内外でゴールを重ね、日本屈指の長身FWとして活躍してきた。

ハーフナーさんはスペイン1部コルドバでプレーした後、フィンランド1部HJKヘルシンキを経て、父ディドさんがプレーしたADOデン・ハーグへ移籍。2015-16シーズンには欧州リーグで当時日本人最多となる16得点を挙げて注目を集めた。

そこでハーフナー・マイクさんに、Qolyは単独インタビューを敢行!

インタビュー第2弾となる今回は、父親のディドさん、弟ニッキとのエピソードや、オランダリーグ復帰、あのパネンカ失敗、欧州と日本の違い、フィテッセで同僚だったウィルフリード・ボニーなどを中心にエピソードを聞いた。

(取材日:2023年2月2日)

――父親のディドさんについてお聞きします。デビューされた当時「史上初の親子Jリーガー」と言われたと思います。それについてどのように感じていたのかを改めて教えてください。

自分がサッカーを始めたきっかけから、まず親父の存在があったわけです。でも、それが嫌になった時期も結構ありました。

小学校、中学校とかもそうですけど、やっぱり目立てば新聞とかに結構記事を書かれます。絶対最初に「ハーフナー・ディドの息子」って書かれるんですね。それが嫌で、本当に。「絶対にいつか逆にしてやる」と思っていました(笑)。

そういうのもあって、頑張ってきたのもあるんですけど…。ただ、親父はどちらかというとすごくプロフェッショナルな人間で。現役引退した後、コーチになっても毎朝最初にグラウンドに来て走っているような人でした。

すごいプロフェッショナルだなと思ったんですけど、自分はできなかったですね(笑)。自分もそれができていたらもっといい選手になれていたのかなと今では思ったりもしますけど、そういうのは出来なかったな。

――弟のニッキさん選手がスイス2部のヌーシャテル・ザマックスに所属しています。ニッキさんとの思い出はありますか。

結構年齢が離れているんですよ、8歳ぐらい離れていて(※学年で7つ年下)。中学校高校に上がるとそこまで一緒にサッカーすることもなかったですし、自分は18歳になってすぐ家を出たので、特にそんな思い出がない…興味がないです(笑)。

――ニッキ選手に期待していることは?

期待すること…特にないかな(笑)。引き続きサッカーでも頑張ってほしい。やっぱり上でやれなきゃ意味がないので、1部とか。上に行けるように頑張ってほしいと思います。

――コルドバを退団された後はヘルシンキを経て、2015年の夏にADOデン・ハーグへ加入。お父さんのディドさんも所属されたクラブに入団していかがでしたか。久々に戻ったオランダでした。

いろいろあって、とりあえずまた同じとこに戻ってきたな、と。年齢も重ねていて、そのゴチャゴチャの間に中国からもいいオファーがありました。ただ年齢も考えて、もうちょっとヨーロッパでやりたいというのが個人的なスタンスだったので。

それでヘルシンキに1回行って、ADO(アド)へ行ったんです。でもADOはまた独特なチームというか、街がすごく綺麗で、海沿いで選手たちも温かくて、溶け込むのに全然時間がかからなかった。

決まって多分3日か4日後くらいに試合だったんですけど、いきなりスタメンで出してもらって。当時いたドゥプランという左サイドのフランス人と息が合うことが多くて、そこから結構点を取れたなというシーズンでしたね。

――結果を残していた中で2年目。デン・ハーグでの記憶に残るというか、パネンカのPK失敗がありました。あの場面、なぜパネンカで蹴ろうと思ったのでしょうか。

何でだったかな。なんか余裕があったんですね。自分の中で、絶対PKを入れられるだろうみたいな。キーパーも横飛びするのが見えたので、「チョンでいいや」みたいな。打ったらゴールの上のネットに行って。

落ち込んだ若い選手がいたら「YouTubeで『ハーフナーマイク パネンカ』と調べてみて。すぐ元気になれるから」と言って励まします(笑)。

スコア1-1のアディショナルタイムにPKを取ったのは僕なんです。その試合で1点目を入れたのも自分で、ボレーのすごく良いゴールでした。決めれば勝ちだった試合で、「この試合を締めくくるのはパネンカだろう」と。自信を持って打ったら外したというだけです。

――パネンカから22試合ほどゴールが遠ざかって、その後連続でゴールを決めて最終的にはリーグ戦9ゴールという形でした。パネンカ失敗後、ゴールから遠ざかった理由と復活した理由を何だったのでしょう。

元々そこまでチーム状況は良くなかったんです。最初の3試合はまだ良かったんですけど、多分そこまで強い相手じゃなかった。そのあと強い相手とやっていったら、化けの皮が剥がれてきたというのがありました。

やっぱり上手くいかないことが多くなると守備も上手くいかないですし、チームも間延びしてきて、本当にチャンスが少なかったというのはありましたね。

自分は確か少し難聴になってしまって、後半戦ちょっと出遅れたんですけどその間に監督が代わって、立て直すという意味で色々チーム内も変わりました。そこからまたうまく回り始めたというか機能し始めて、また点が取れるようになったかなと思います。

――2017年にヴィッセル神戸へ移籍し、Jリーグ復帰を果たしました。日本に戻ってきて、海外でプレーしたことで感じた欧州と日本の違いを教えてください。

やっぱり日本のほうが走る…走るというか運動量の違いがもちろんありますし、後はFWにものすごく守備を求めることが多いです。

海外は1トップだとどちらかのセンターバックに付いておけばいいという感じで、他の選手がハメに行く。「お前がパワー使うのはゴール前だから点を取れ」みたいな感じなんですけど。日本は「みんなで守備をしてみんなで攻撃をする」という感じかな。

海外でのプレーに慣れちゃったというか、向こうの考え方がやはり自分の中にずっとあって。そうなるとまた日本のサッカーにアジャストするのがちょっと難しかったかなとは思いますね。

日本に帰ってきてからあまりうまくいかなかったのは、自分の柔軟性があまり良くなかったかな。海外に捉われているというか。やっているサッカーが全然違うというのを感じました。

――日本人FWは海外に行くとセンターフォワードじゃなくて2列目とかで使われがちです。それについてハーフナー選手は自身の経験からどう感じますか。

海外のチームの監督はゴールを求めるので。フォワードは点を取る。日本と考え方が全然違います。守備よりまず攻撃でちゃんと結果を残す。残さなきゃいけないのが海外です。

そういう意味で日本人の選手は献身的ですごく頑張りますし、いろいろできるという見方になっちゃうんですよね。海外の監督からしてみれば。色々できるけど、点はそこまで取れないというか。

であれば、前に点の取れる、そこまで動かない選手でも置いておいて、あとは周り。守備もこなしながら、日本人の選手は海外に比べて技術のレベルはすごく高いので、そういうつなぎ役として使われやすいかなと。

言い方はアレですけど、ナメられやすいというか。交代しやすいとか。そういう感じで思われていると思うんですよ。なので、点をたくさん取って、90分間出られるフォワードがどんどん出てきてほしいと思います。

――そういう意味では、フィテッセのボニー選手は強烈でした。存在感が凄かったですし、ハーフナー選手との関係性もすごく良かったように見えました。ボニー選手はどんな選手でしたか。

最初、本当にびっくりしたんですよ。「恐竜が入ってきたのかな、ロッカールームに」と。海外に行ってみなければ分からないですけど、あっちの選手はガタイが本当にえげつない。

ガタイがえげつないのに、筋トレを一切やってないという。せこいだろうみたいな(笑)。こちらはいくら筋トレをやっても全然筋肉つかないのに、何もやらないで何故あんなに筋肉がつくのか…。

エゴと言うか何て言うか、考え方が全然違うなと思いましたね。彼は、守備は一切考えてなかったですから。「俺は点を取る。お前らが俺にボールを出す」みたいな感じで。これが海外でも点が取れるFWなんだと強烈に思いました。

フィテッセのあともプレミアリーグへ行って、多分1シーズン目で17点とか結構点取っていましたから(※スウォンジー1年目の2013-14シーズンに16ゴールを記録)。それでマンチェスター・シティまで行って。グアルディオラのサッカーには合わないだろうなとは思ったんですけど。

でもこういう日本人のFWは出てくるのかなと考えました。こういう考えを持ってサッカーするのは多分日本では無理だろうなと。日本で言ったら、ピーター・ウタカみたいな感じなんですかね。本当にえぐかったです(笑)。

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インタビュー最終回となる第3弾の動画もYouTubeの『Qoly公式Ch.』にて配信中!

長年議論されている日本代表長身ストライカー待望論やザックジャパンでのエピソード、期待の日本人FWについて聞いているのでこちらもぜひご視聴ください。

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