THE MAGNETS - 新宿LOFTでキャプテンレコーズ期のメンバーによる29年振りのライブを開催!

自主制作でソノシートを出してから人気がうなぎ昇りに

──マグネッツの前は何かバンドはやってたんですか?

星川:高校の頃からバンドはやってたんで、高校1年ぐらいかな。

──パンク・バンド?

星川:もちろんパンク・バンド。パンクじゃないバンドはやったことがないですね。最初はクラッシュとか亜無亜危異とかそのへんのコピー・バンドで。ありきたりな感じで始めましたね、最初からボーカルで。そのときはボーカル・ギターで。オリジナルもちょこちょこやってはいましたね。高校の頃はバンドを2つか3つやってました。

──そんなに?

星川:学祭とかでやると先輩のバンドとかに引っ張られたりして、オマエちょっとサイド・ギターやってくれよとかって。で、そっちのバンドと自分のバンドとかをやって。

──そのときは、バンドでずっとやっていこうっていう思いは?

星川:そこまでは考えてなかったですね。

──でも継続的にバンドはやってた?

星川:そうですね。高校が仙台だったんですよ。で、やっぱり上京しないとだなって思ってて上京して。それで、当時『ドール』とかのバンド募集とかもあって、募集して作っては解散してってのを繰り返して。

ザ・マグネッツ(1989)撮影:辻 砂織

──上京したのは何年? マグネッツを結成したのが87年だよね。

星川:そう、だからその3、4年前かな。で、ギターの田中くんとかと出会ったのが、そのときは自分が募集したんじゃなくて、向こうからボーカルを募集してたのを見て。それに飛び込んだのが始まり。だけど、1回目のリハでは、そこのバンドとはノリが合わなくて。その後、マグネッツの前身となるバンドを作ったときに、田中くんから連絡が来て、それで組むことになって。

──それが母体となって、星川くんと田中くんでマグネッツを結成することに?

星川:そうですね、そこで二人でマグネッツっていう名前も決めて。それで、1回目のライブが87年の10月くらいだったかな、新宿のジャムで。最初の頃のライブはジャムが多かったですね。渋谷の屋根裏もいつか出たいなと思ってたら無くなっちゃって(笑)、下北に移ってからは出たんですけど。その翌年の3月か4月なんだけど、渋谷のライブインってとこでイベントがあって、それに出たんだけど、そのときの対バンが面白かったですね。ジムノペディアとかとスピッツも出てて(笑)、あといくつか出てたんですけど。

──時代ですね(笑)。田中くんとマグネッツを始めたときに、どんなバンドにしようってのは何かありました?

星川:特別にこういう方向で行こうって話はなかったと思う。最初に出会ったときのバンドはラモーンズ的なバンドだったんですよ。最初からオリジナル曲をやってたんだけど、10曲あったら、その後もやってる曲は、1、2曲だけだから、ボツ曲が多かったですよね。曲はだいたい僕が作っているんですけど、田中くんはそれに耐えてくれましたね(笑)。

撮影:TAMA

──それでソノシートを出したのは。

星川:1stの『NEEDLES』を出したのが88年かな。池袋のスタジオで3曲録ったんだけど、その内の2曲でリリースして。それがけっこう評判良くて、そっからですかね。

──それ出す以前はどんな感じだった? ある程度ファンがいたりしたんですか?

星川:いやー、ほんの少しはいたけど、やっぱ出してからですね。それで徐々に客がついてイベントとかにもどんどん出て人気も上がっていった感じです。それで2枚目の『PLUNK BOY』は、当時ビリー・ザ・キャップスとかジムノペディアとか、ジャンル関係なくいろんなバンドをリリースしてるとこの関連会社から話が来て。でもレコーディング中に社長が失踪しちゃって(笑)。だからごちゃごちゃした中で出しましたね(笑)。

自然消滅的な感じだったので解散ライブはしなかった

──『PLUNK BOY』は、その後のマグネッツのサウンドや人気を決定的にした一枚だったのかと思うけど。

星川:あれは録り方にもかなり拘って。ダムドの『MACHINE GUN ETIQUETTE』みたいなサウンドの録り方をしようって。マイクの置き方とかを考えて、ザラついた感触の音とかが出せるように録音しましたね。

──確かに音はザラついた感じで凄くハードなんだけど、曲はキャッチーでポップな部分もあって、それが上手く噛み合ってるとこがカッコ良かった。ハードコアっぽさもあるし、Oiっぽいとこもあって。

星川:そうですね、そういう狙いもあったし。そのときのドラマーの辰嶋くんがけっこうハードなドラマーだったんで、それにどんどん乗ってった部分もありましたね。『PLUNK BOY』のレコーデイングの少し前に、ベースが音楽性の違いで抜けることになって。それで募集して中村くんが加入したんです。やっぱり『PLUNK BOY』でかなりお客さんがつきましたよね。その後でオムニバスが2枚出てるんだけど、ビクターから1枚とキャプテンからの『STRAIGHT AHEAD 2』ってのが出てて、『STRAIGHT〜』を出したときが一番ググッて来たかな。その頃から新宿ロフトとかでも定期的にやるようになった。で、その年の5月にスタークラブのソリッド・フィスト・ツアーの最初だったかファイナルだったんですけど、MZA有明でのワンマンにオープニングで告知無しでいきなり出たんですよ。客に暴言吐かれて、紙くず投げられたりしたんだけど(笑)。で、一気に5曲バッーってやったら、そこでまた一挙にファンがついたってのもありました。

撮影:TAMA

──その後、ドラムがEBYさんに替わって、89年にキャプテンからの1stアルバム『SARCHING FOR TRUTH』がリリースされますね。いろんな曲のパターンがあるし、1曲の中でも展開が激しかったりして、いろんな要素が詰まっていてそこが面白い。

星川:アルバムの中で起承転結って考えて作るバンドもいると思うんですけど、その頃は、パンクってシングル主体ってのがあって。ピストルズも『NEVER MIND〜』はシングル出していってそれをくっつけたような感じだし、シングル自体がパンクの基本だって思ってたから。だから次のライブのためにシングル的な曲を作ってっていう曲作りをしてて、それで何十曲あるうちから組み合わせて作った結果そうなった。1stアルバムってことで、だいぶ気負った部分もあったから、もう少し粗々しい感じで作っても良かったなって部分もありますね。だからその後のライブ盤でガーンといったんで、そっちのほうが本来の感じだなって。

──確かに。1stはボーカルもちょっと堅いというか、丁寧すぎる感じ?

星川:やっぱりキチッと唄おうってのがあったんだと思う。その前の『PLUNK BOY』がけっこう粗いから余計にそう聴こえちゃう。そういう面ではちょっと思うとこはあるけど、過去のモノでどうこう無いんだけど、あれはあれで今思えば良かったと思う。再録でもすればまた違うだろうけど。

ザ・マグネッツ(1989)撮影:辻 砂織

──それはけっこういいかもですね。その後は、ライブもコンスタントにやりつつアルバムもリリースして、順調だったように見えたけど、93年の4枚目のアルバム『CULTURE SLUT』を出して活動休止。このアルバムってサウンドの深化と時代の空気感も取り込んだ、ある意味マグネッツの完成形のようにも思えたんだけど。

星川:確かにそのアルバムが凄いって言ってくれる人がけっこう多くて。そうなんですよ、完成形を作っちゃいましたね(笑)。自分でも凄いのが出来たなっていうのはありましたね。

──この先どうなるんだろ? ってとこで活動休止っていうのは?

星川:そうなんですよね。『CULTURE SLUT』出して2回ツアーをしたのかな。で、まずドラムが辞めて、違うドラマーでやってて。でも、メンバーはここまでやってきて、バンドだけでは食えないしっていう思いもあったのかな。そこで一つ区切りをつけなきゃって思いもあっただろうし、そこでやっぱり煮詰まっちゃったのはあるかな。それでベースが抜けて、その後、田中くんも辞めるってことになって、全員辞めることになって。でもメンバー集めてやったんですよ。それで2、3回ライブやったけど、自分的にも精神的に追い詰められてるとこがあったし、プライベートでのトラブルとかもあって1回停止しようって見切りをつけた。で、そのまま引退的な感じになってましたね。やっぱりずっと一緒にやってきた田中くんが辞めたっていうのは大きかったと思いますね。

──当時、活動停止しますって発表は?

星川:なかったですね。だから自然消滅的な感じで。だから解散ライブとかもなかったし。

──未練というか、バンド活動を続けたいっていう思いもあった?

星川:最初はそうだったけど、年数が経つにつれて、もう引退だなって思うようにはなりましたね。

沈黙を破り、再結成に至った理由

──マグネッツをやってるときに、自分の中で意識していたことは何かあります?

星川:ハードさとかスピードもあるけど重さとかそういうとこは常に意識してたかな。とにかくパンクっていう意識は強かった。なんて言うんだろう、パンクって言っても単なるロックンロールのパンクではなくて、ハードだけでもないんだけど、ロックの内面からくる激しさみたいなのが出せればと思ってた。それが最後の『CULTURE SLUT』では出せたかなと思ってる。

──マグネッツと平行して、東京ダムドとしても活動してた時期があるじゃないですか。そもそも始めたキッカケはなんだったんですか?

星川:東京クラッシュ、東京セックス・ピストルズとか東京○○ってバンドのイベントがあって、東京ダムドどう? って話が来て、じゃあやろうかって。それでダムドの完コピしてやったのが最初。そしたらそれが好評で、話がどんどんいろいろなとこから来て(笑)、『ロンドン・ナイト』とかに出たりして、CDもリリースして。それは、マグネッツとしてもいいカンフル剤になったと思う。

──ダムドはマグネッツとしても大きな存在でした?

星川:それは大きいですね。ラモーンズ、ダムド、モーターヘッド、この3つはけっこう大きかった。

──モーターヘッドか、G.B.H かと思った。

星川:あっ、G.B.Hももちろん。

──スティッフ・リトル・フィンガーズとかは?

星川:それもありますね。その5バンドがわりと核になってるとこが大きいかも。

──なるほど。マグネッツを止めてから、新しいバンドを聴いたり、音楽シーンの状況なんかはチェックしたりしてたんですか?

星川:やっぱり気にして聴いたりもしてて、ちょうどヘヴィ・ロックが流行ってたときには凄い触発されて、その頃田中くんとも連絡取ってたから、打ち込みだったんですけど、2001年に二人で『A NEW HOPE』ってアルバムを作ったんですね。あれもかなりの自信作ではあったんだけど、やっぱりライブとなると実感が湧かなくてやってませんけど。

ザ・マグネッツ(1989)撮影:辻 砂織

──活動停止してたときに、突然リリースされたから驚きましたね。今後何か動きがあるのかとも思ったけど何もなく(笑)。で、今回いよいよ何十年という沈黙を破って再結成という。なんでここで再びやろうと?

星川:田中くんから何年か前にもやろうって言われて断ってるんですよ。でもその後、田中くんが胸を大きく切る手術をして。そういうこともあって、去年の4月くらいにまたそんな話になって。お互い歳も歳だし、この先また一緒にやれるとしたら、もう今しかないんじゃないかと思って。これが最後だと思って。だから引退して、この先バンドをやることはもうないと思ってたけど、底辺のどっかではあったのかな。それですぐに打ち合わせをしに福岡に行ったんですよ。その時点では、まだベースとドラムは決まってなくて。メンバーは凄く悩みましたね。でも最終的には1stアルバムのときのメンバーにしようと。

──じゃあライブの曲は1stアルバム中心に選曲していく感じですか?

星川:もちろんそうなんだけど、1stアルバムは9曲しか入ってないから(笑)、1stとライブ・アルバムのほとんどはやることになると思う。3rdアルバムや、さっき話した『CULTURE SLUT』もマグネッツとしてはそれはそれで重要だから、やっぱりそこからも何曲かはやることになりますね。

──これは一夜限りってこと? それとも継続的に今後もやっていくってこと?

星川:メンバーそれぞれ仕事があったり、自分のバンドがあったりするから、それが合わないとできないっていうのはあるんだけど、ましてや田中くんは九州だし。でも今回で終わりって話もなくて。ツアーをガンガンやってくとかそういうことは無いけど、ワンマンじゃなくても、年に1回、2回とかできたらいいなとは思ってる。できれば音源も出したいし、今、曲も作ってるんです。だから条件が合えば今後もやっていけるかな。個人リハにも入ってるんですよ。スタジオに入って、CD掛けてその上に唄うっていう(笑)。

──歌詞は憶えてました?

星川:最初は真っ白かなと思ったけど、不思議と最初の一言目が出てくるとずっと出てくるんですよ。何回か唄ううちに歌詞カードを見なくても唄えるようになりましたね。

撮影:TAMA

──昔の曲って10代、20代の星川くんがそこにいたわけじゃない、それを年齢を重ねた今唄うって違和感とか恥ずかしさみたいなものはあったりします?

星川:意外にそれはないかな。確かに昔の歌詞は幼い部分があったかもしれないけど、こんな幼い歌詞唄えないな、みたいなのはないですね。

──体力的にはどう?

星川:今、一生懸命走ってるんで、それは大丈夫です(笑)。この前もリハーサルやって疲れなかったし(笑)。

──それでは最後に、かつてマグネッツのCDを聴き、ライブに足を運んだり、後追いで聴いてファンになった人たちにメッセージを。

星川:歳は取ったけど、期待に添うようなライブになると思う。昔に戻ったようなライブをするからぜひ来てほしいですね。

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