桜と鉄道、賑わいの飛鳥山

 【汐留鉄道倶楽部】東京23区でも屈指の花見の名所、北区のシンボルとも言える飛鳥山公園に足を運んだ。コロナ禍も少し落ち着いたように見えるし、今春は多くの花見客で賑わっているだろう、なんて期待を持って日頃使い慣れていない京浜東北線王子駅で下車、都内で唯一残る路面電車の都電荒川線(東京さくらトラム)を横目に、早速標高25・4メートルの低山登りを開始した。

 

飛鳥山の山頂に保存されている都電6000形

 飛鳥山は300年前の徳川時代から花見の観光地として知られ、約600本の桜が植わっているという。階段状の山道を登る途中、左側にJRの新幹線や電車がひっきりなしに行き来しているのが見える。ここが崖の際であることが良く分かり、意外に高所だなあ、と痛感する。同時にここは鉄道好きの子どもたちにはたまらないスポットかも、と思った。ほどなく山頂に着くとそこは一面の桜世界。至る所に花見客が楽しそうに飲食している。コロナ禍の最中はさぞ閑散としていたのだろう。大勢の笑顔に時の流れを感じた。

 

満開の桜の下、散策でにぎわう飛鳥山

 山頂とは言ってもそこは平地が長く広く続く。ぶらぶら歩くと濃い黄色のボディーに赤のストライプが入った都電が鎮座していた。もちろん静態保存で。6000形といい、1949年の製造。戦後初めての新車としてお目見えし、〝斬新な姿〟は当時の都民から大変好評だった車両らしい。座席は撤去、ヘッドライトや行き先表示などはアクリル加工され、当時を完全に復活させたわけではないが、配色や見た目はまさしく都電そのもの。大量に生産され、78年まで実際に荒川線を走っていたというのだからふるさとに帰ってきたようなものだ。

 

飛鳥山の山頂に展示されているD51

 言うまでも無く、荒川線以外の都電は車社会の到来で邪魔者扱いされ1970年代中ごろには廃止された。私はなくなる頃は地方に住んでいたので当時の都民の心は良く分からないが、都電がまだ元気だった60年代後半までは東京に住んでいた。車がそばを走る狭い電停や鞄をたすきがけにして切符の確認をしていた車掌さんなどの風景が浮かぶ。多くの系統が交錯する須田町や終点渋谷の停留所、車内の網棚、つり革もおぼろげながら覚えている。

 いや、もしかして漫画サザエさんの一コマや古い鉄道雑誌で見た特集記事とごっちゃになっているのかもしれない。都電というのは私には〝103系国電〟よりさらに一昔前の乗り物として位置づけられているのだろう。

 6000形の保存場所は児童遊園内なので子どもたちがひっきなしに運転台を触ったり木製の床を走り回ったりしている。大人1人がじっくり車内を眺めたり写真を撮ったりするのははばかれる。長居はあきらめた。すぐそばにはSLのD51がこれまた静態保存されていた。手入れはあまりされてなかったが、やはり運転台など内部は子どもたちでいっぱいだった。こちらは72年まで羽越線を走っていたという。

 

超ミニモノレール「アスカルゴ」

 ちなみに王子駅前からは「あすかパークレール」という全長48メートルの超ミニモノレールに乗って山頂に行くこともできる。乗り物の愛称は「アスカルゴ」。飛鳥山と車体がカタツムリに似ているから命名したセンスに脱帽した。

 私にとってなじみの薄い王子駅前の飛鳥山桜小旅。周辺は新幹線などのJR車両線が頻繁に走っていることに加え、現役都電が急カーブに急勾配を駆け抜ける。山頂にはかつての都電車両に巨大なD51。さらに地下には東京メトロ南北線が走り、崖地にはわずか2分で行き来するミニモノレールまで。

 桜に加え何ともにぎやかなこと。特に鉄道好きには大いに楽しめる観光地であった。徳川吉宗が江戸っ子のために飲食付きで開放したとされる山は今もそのまま続いているのだった。

 ☆共同通信・植村昌則

                      

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