ニューロティカ×J - 新宿ロフト出演回数最多バンドによる渾身企画第5弾は、ロフトのスピリットを身に宿した両雄が相まみえるセメントマッチ!

新宿ロフトは特別なオーラがあって憧れだった

──Jさんとの共演は今回が初ですか?

アツシ:2マンは初めてですけど、hideちゃんのイベント(『hide presents MIX LEMONeD JELLY 2017』、2017年8月5日開催)で共演したことがあります。

J:そうでしたね。

──それ以前に面識はあったんですか。

J:僕がLUNA SEAでデビューして、少し経ったくらいの頃、新宿ロフトのイベントによく遊びに来させてもらっていたんです。出る側ではなく観る側として。ご承知の通り、LUNA SEAのメジャーに至る道のりは“新宿寄り”ではなく“目黒寄り”だったんですけど(笑)、僕は日本のロックレジェンドたちの息吹を生で感じたい思いもあって、ロフトに遊びに来させてもらっていたんです。亜無亜危異のメンバー(仲野)茂さんや(藤沼)伸一さんにも可愛がられていたのもあって。そんな流れの中で僕がロフトにいたときも、アツシさんは凄く優しく接してくれました。

アツシ:“アツシさん”はやめてください! “あっちゃん”でお願いします!(笑)

──Jさんは新宿ロフト主催の『KEEP the LOFT “で で で 出てけってよ』(1994年7月10日、日比谷野外音楽堂)にも出演していただいているんですよね。当時、立ち退き問題に揺れていたロフトの存続支援イベントで。

J:はい。茂さん、マリ(逸見泰成)さん、コバン(小林高夫)さん、真島昌利さんと一緒に亜無亜危異の曲をプレイさせてもらいました。「ノット・サティスファイド」や「心の銃」といったナンバーを一緒に演奏できて本当に光栄でしたね。

アツシ:僕は当時、「うわッ、Jがロフトに来た!」と思った(笑)。確かその前にも会ってたんですよ。茂さんの誕生日に、茂さんのお母さんが赤羽でやってた店で会ったんじゃないかな。

J:ああ、そうでした。1月2日ですよね。

アツシ:うん。そっちのほうが驚いたもんね。なんでLUNA SEAのメンバーがこんな所にいるの?! って(笑)。でもそこで会話してたからロフトで会ったときも違和感がなかったんだと思う。

──LUNA SEAは1991年7月6日、7日に『UNDER THE NEW MOON TOUR EPISODE1』の一環で新宿ロフトに出演していただいていますし、同年10月13日にも『UNDER THE NEW MOON TOUR EPISODE III』の初日として新宿ロフトに出演していただいて(いずれもワンマン)、“新宿寄り”だった過去も窺えますね。

J:自分たちにとって当時のライブハウスシーンというのはやはり特別なもので、中でも新宿ロフトは本当に特別なオーラがあったし、目標や憧れでしたね。僕らは町田のプレイハウスというライブハウスで初めてライブをやって(1989年5月29日)、そこを拠点に次なるステップアップを目指して、自分たちのすべてを賭けてライブハウスシーンの中へ飛び込んでいった……当時はそんな印象があります。シーンの最前線にいる猛者たちが連日連夜出ていたのが新宿ロフトで、当時のライブハウスは今以上にそれぞれのカラーが明確にあったし、敷居も凄く高かった。もちろん良い意味で。だからロフトのような名の知れたライブハウスに出る前はもの凄く練習したし、自分たちの個性を如何に打ち出すかに躍起でした。バンドのカラーが被るのがとにかく嫌だったし、他の誰かと似てるなんて自分たちの存在意義が失われるように感じていました。それくらいバンド同士が個性を突きつけ合い、ぶつけ合う時代だったと思います。そういう時代を生きてきたので、ロフトで生まれた伝説みたいなものには憧れましたよね。

──綺羅星の如きバンドがロフトをホームグラウンドにしていましたからね。

J:亜無亜危異、ARB、ルースターズ、BOØWYといった日本のロック史にその名を刻む、名だたるバンドがロフトを根城にしていたじゃないですか。音楽的に硬派でストイックなバンドが数多くロフトを根城にしていたことで独特のカラーを放っていたし、ライブが終わってフロアで飲む場面まで含めて全部が映画のワンシーンみたいだった。しかもロフトには音楽だけではなく、ジャンル的にも業種的にもいろんな人たちが夜な夜な集まっていて、まさに時代の先端にいる尖った人たちが集う夢のような場所だったと思います。

すべてを投げ打ってバンドに賭ける覚悟がなければダメな時代

──打ち上げやパブタイムはそうして楽しく酒を酌み交わしても対バンとなれば一触即発、闘志を燃やすヒリヒリした空気が当時はありましたよね。

アツシ:あったね。いまJの話を聞いていて、沸々と闘志が湧いてきた。もうすでに勝負が始まってるな! って(笑)。Jの言う「バンドのカラーが被るのが嫌」とか凄いよくわかるし、そうやって熱くなってぶつかり合うのが基本だよね。ロフトでライブをやるにも、対バンとはリハーサルでも一切話をしなかったから。相手のことを直立不動で睨みつけたりして。音楽的なことはよくわからないけど、まずポーズから入るのが大事だったから(笑)。今となっては会場入りしてからすぐ対バンともワイワイ賑やかにやってるけど、当時はそんな感じだった。Jの話を聞いて昔の気持ちが沸々と湧き上がってきたし、なんか興奮してきた! こうなったらもう明日ライブをやっちゃいますか?!

──いくらなんでも早すぎですよ(笑)。でも確かに、昨今の若いバンドは妙に品行方正で、ライバル心をメラメラ燃やす感じではないですよね。

J:あっちゃんの言う当時のヒリヒリした空気がお互いを刺激し合って、それが結果的に音楽シーンを活性化させて実り多きものになったのは絶対ですね。僕ら世代はその過程を見て多大な影響を受けた側だし、そのシーンのど真ん中へ突進する覚悟をバンドを始めてから求められていた気がします。すべてを投げ打ってバンドに賭ける覚悟がなければダメな時代だったし、そういう感覚は今となればちょっと懐かしいですね。

アツシ:僕が初めてピエロのメイクと衣装でライブをやったのが、法政大学の学祭だったんですよ。法政大学の講堂で、500人くらい入るパンクのイベントが毎月あって。そこでピエロの格好で出て、パンクスに殴られたらそこで終わりだと思ってた。それがJの言う覚悟、自分なりの覚悟だった。その覚悟でライブを始めたら、モヒカンがダイブしてきたんですよ。それを見て「俺の生きる道はこれだ!」と思ったね。大袈裟かもしれないけど当時のライブは闘いだったし、闘ってケンカして仲良くなって今がある。今は歳を重ねて、最初からケンカしなくても仲良くできるようになったからヒリヒリすることもなくなったけど。

──覚悟を決める前のJさんは、ニューロティカに対してどんなイメージを抱いていましたか。

J:当時のインディーズシーンを牽引していた物凄いエネルギーを持ったバンドですよね。メジャーに行ってもインディーズの気概を忘れずに個性的な活動を貫いていたし、40年近くずっとバンドをやり続けてるエネルギーを保ち続けているのは驚異と言うほかありません。どのバンドよりも多く新宿ロフトでライブをやっていて、その記録はもはや誰も超えられませんよね。そうしたあっちゃんのモチベーションも含めて、エネルギーがどこから生まれるんだろう? と思います。

アツシ:僕としては、自分の好きなことをみんなに教えたいっていうのが常にエネルギーでありモチベーションなのかな。あそこのラーメン屋は美味しいよ、あのバンドは格好いいよ、あの公園は凄くいい所だよみたいなことを、歌を通じてみんなに知ってほしい。僕が面白い、楽しいと感じるんだから、みんなもきっと同じように感じるはずだし、それを独り占めしちゃいけないっていうタイプなので、みんなと共有して楽しみたいんです。それがニューロティカなんですよ。

J:あっちゃんは生粋のエンターテイナーですよね。今の発言からも僕はそれを凄く感じます。

──Jさんもエンターテイナーの称号に恥じない活動をされていると思うんです。4月に行なった『J LIVE 2023 SPRING』でも東京と大阪で必ずFC限定ライブを開催していて、常にファンを大切にしたブッキングを組んでいますよね。

J:もしもライブという表現の場所がなかったら、自分は音楽をやっていなかったかもしれないと考えることがあるんです。それくらい僕の音楽活動の中でライブは大切な場で、そうした場を自分の一番近くにいるみんなとまず共有したいし、それが何よりのエネルギーに変わっていくんです。自分にとって大切なものを確認できる場でもありますしね。だからFC限定ライブはずっと大切にやり続けているんです。

“声出し解禁ライブ”を経て感じたこと

──Jさんが4月1日、2日に新宿BLAZEで行なったライブでは久々に声出しが解禁されましたが、手応えはいかがでしたか。

J:約3年3カ月ぶりの声出し解禁で、“やっと戻ってきたな”という感覚が凄くありました。ただそれは単に3年3カ月前に戻ったわけじゃなくて、むしろ僕らは先に進んだように感じたんです。コロナの渦中にいたときはいろんなことが規制されて、特にエンターテイメントの世界ではその在り方そのものが激変してしまった。その中で自分たちにとって大切なものを守るためにあらゆる我慢に耐えてここまで来ました。じゃあこの3年3カ月はただ耐えるだけの時間だったのか? と言えば、実はいろんなものを得ることもできた期間だったと思うんです。僕らにとって本当に大切なものは何なんだろう? これだけは絶対に譲れないものとは何なのか? 制限がある中でもこういう発想でライブを進めるのは楽しいねとか、そういう気づきがいろいろあって、決してネガティブなことばかりではなかった。だから今の自分の気持ちとしては、その期間のこれまでの経験や思いのすべてをポジティブに変えてやろうと。その意味でも先に進めたと思うし、これまで我慢してきたぶんだけみんなで楽しめる時間をこれから刻んでいきたいんです。

アツシ:Jの言う通りだね。今回のコロナ禍でもいろんな経験をさせてもらったし、決して無駄にはなってないと思う。コロナはまだ完全に終わったわけじゃないけど、これもまたいろんなことが巻き起こる人生の一部というか、見たことのない景色を見た経験が今後に活きると思う。僕は何事もポジティブに捉えるタイプだからね。

──あっちゃんはコロナ禍の初期に二足の草鞋の片方がぬげてしまった格好でしたが、実際のところどうでしたか。

アツシ:リハーサルもできなくなったのが1カ月くらいあったのかな。そのときにやれたのは家のお菓子屋の仕事だけだったんだけど、こんなに時間があるんだなあと思ったね。でも正直な話、少し休めて心の余裕ができたのは有り難かった。それまでずっとバンドとお菓子屋の仕事でフル稼働していて、動いてないと死んじゃうタイプだと思ってたんだけど(笑)、ちょっと立ち止まれたのは良かったと思いますね。

──ライブをやれない代わりに作詞の時間が増えたとか、そういったことは?

アツシ:ちょうどデモを1曲作ってあって、メンバーがそれぞれ自撮りした映像をナボちゃんが編集してMVを作ったのは面白かったね。50を過ぎたおじさんたちがリモートでMVを作るなんて凄いなと自画自賛(笑)。Jはどうしてたの?

J:とにかく得体の知れない事態だったし、いつまで続くのかわからなかったから凄く戸惑いましたけど、ここで立ち止まるわけにもいかない。それでたとえばオンラインでのライブがアイデアとして出てきた。通常のライブではないにせよ、今はこうしてみんなと繋がることができるんだという発見もありましたね。不自由なときは不自由なりに、そのときにしかできないことをいろいろと模索しながら取り組んでいました。

──無観客のオンラインライブはやはり雲を掴むような感覚でしたか。

アツシ:無観客の配信ライブを初めてやったのは八王子のマッチボックスだったんだけど、やったことがないからみんなのコメントを見ながらちょっとずつやろうかなんて話していたんです。それでいざやってみたら、1曲目をやっただけなのに僕が凄い疲れちゃって。お客さんがいない上にカメラを見ながら唄うのに苦労したのか、感覚が全然掴めなくて。それでメンバーに「ちょっと待ってくれ」って言ったんだけど、僕以外の3人もやりづらかったみたいでね。いつもは頭に4曲くらいガーッとやるバンドなんだけど、1曲だけで全員がバテちゃった(笑)。そのときにRYOくんが「今までどれだけお客さんに助けられてたかってことですよね」って言ったんだけど、ホントにその通りだなと思って。お客さんとニューロティカがぶつかり合って初めてニューロティカのライブになるってことをそれで実感しましたね。

J:よくわかります。僕もカメラの向こうで画面越しにみんなと繋がっているのをイメージしながら無観客ライブをやって、そのときはスタッフしかいないにせよ、それなりに熱くはなれたんですけど、やっぱり独特の空気感だったんだなと今にして思います。当時はとにかくがむしゃらだったのでわからなかったけど、このあいだの声出し解禁ライブを経てみると、オンラインでのライブは本来のライブとは全くもって別物だったんだなと。とはいえ別物には別物の良さもあって、その良さを今はより理解できた自分がいます。これからも機会があれば配信には取り組んでいきたいし、場所にも時間にもとらわれず全世界へ発信していけるようなオンラインでのライブができると思ったら、自由な感覚を得ることができたんです。その意味でも3年3カ月という期間は決して無駄ではなかったし、学べることが多かったと思います。

亜無亜危異のトークライブになぜか巻き込まれたエピソード

──お二人に多大な影響を与えたであろう、仲野茂さんについて聞かせてください。

J:僕らはデビューがビクターで、村木(敬史)さんというディレクターの方がずっと亜無亜危異を担当されていたんです。そんな繋がりもあって、僕が亜無亜危異が好きだということで、いろいろな流れで紹介していただきました。

──先述した『KEEP the LOFT』然り、Jさんは茂さんとGaZaや高樹町ミサイルズなどで一緒にバンドをやったり、一時は共演する機会も多かったですよね。

J:有り難いことにいろいろとご一緒させていただきました。亜無亜危異のメンバーが揃うときにはいつもあっちゃんとG.D.FLICKERSのJOEさんが脇を固めていらして、世代として長い時間を一緒に過ごしてきた、皆さんにしかわかり得ない強い繋がりをカッコよく感じたりもします。あっちゃんは亜無亜危異がロフトプラスワンでやったトークライブを覚えていますか?

アツシ:あれかな、BOXが出たときの(『内祝』~26周年 アナーキー・コンプリートBOX発売記念「亜無亜危異ナイト!!」、2006年2月21日)。何かやらかした?(笑)

J:「トークライブをやるから見においでよ」と誘っていただいて、楽屋でみなさんと楽しく話していたんです。そしたら茂さんが「J、お前も出ろよ」といきなり言われて(笑)。「いやいや、今日のお客さんは亜無亜危異を見に来たんですから、僕が出ちゃまずいですよ」って言ったら「いいんだよ、そんなの! 出ろよ!」って押し通されまして(笑)。それで結局、ステージに出るときになぜか茂さんと伸一さんの間に僕が挟まれる形で出て、あっちゃんが後ろにいて。トークライブが始まってからも僕はずっと茂さんと伸一さんに挟まれて居場所がなくて(笑)。あれは強烈でした。僕がこんな所にいていいのか?! と思ったし、お客さんは「なんだこいつは?!」って感じだったでしょうね(笑)。

アツシ:そんなことないよ(笑)。

J:あっちゃんと茂さんの出会いはいつ頃なんですか?

アツシ:もちろんライブには通ってましたけど、仲良くさせてもらったのはG.D.FLICKERSのJOE兄ィの紹介がきっかけですね。あと、亜無亜危異が復活したとき(1994年)、ロフトとオンエアイーストでやったときのダイブのストッパーが当時のニューロティカのメンバーだった修豚とSHON、それにG.D.FLICKERSのメンバーでした。私生活でもJOE兄ィに「茂さんと飲むぞ!」って誘われたり、有り難いことにずっと仲良くさせてもらってます。

──ちなみに伸一さんが監督を務めた『GOLDFISH』はご覧になりましたか。

J:まだ行けてないんですが、必ず観るつもりです。

アツシ:僕はなぜか出演もしてるんですけど、このあいだ鑑賞しまして……もう、胸がいっぱいでした。

J:あっちゃんはずっとそばでリアルで見てきたからこそ、余計に響くところがあるんでしょうね。

アツシ:何と言うか、「亜無亜危異、オレたちこそ真実」(「叫んでやるぜ」)という言葉がぴったりの映画です。ここで多くは語りませんけど、ぜひみんなに観てほしいですね。

ロックの大事なスピリットや情熱は新宿ロフトの中に宿っている

──亜無亜危異やARB、ルースターズといった新宿ロフトをホームグラウンドとした骨太なバンドの系譜が今は音楽的地層としてどこへ連なっているのだろうと考えることがあるのですが、お二人はどう思いますか。

J:時代の移ろいもあるでしょうし、ただ、僕らはずっと良い時代を生きてこれたと思っているんです。音楽のフォーマットがレコードとテープだったのがCDやMDになり、今やパッケージすらなくなって配信の時代になり…その変遷をずっとリアルに見てこれたし、音楽と生き方が直結するような時代のバンドから2023年最新形のバンドまでを見てこれている。そうした流れの中で新宿ロフトはずっと存在し続けてきたわけで、その意味でもロックの大事なスピリットや情熱はロフトの中に宿っていると思います。その時代ごとに呼応してきた多様性、歴史の重みをステージに立つ側としてはひしひしと感じますしね。

アツシ:僕は先人のDNAみたいなものはあまり気にしないタイプなんです。それはその時代のものであって、今は今のやり方があるって言うか。僕は僕で一つの時代を作ったつもりだし、LUNA SEAはLUNA SEAで一つの時代を作ったけど、みんな今も第一線で元気にやってるわけで。過去よりも今が大事なんですよ。

──権威や権力に唾棄する亜無亜危異の歌やARBの“ワークソング”は日本経済が右肩上がりの時代に生まれたことを考えると、その系譜を継ぐレベルソングがこの時代に生まれない、あるいは支持を得ないのはなぜなんだろうと考えてしまうんです。日本経済はずっと低成長なのに物価高騰が続き、貧困層と富裕層の両極化は進むばかりで、軍備拡張を国民に負担させ、差別横行や人権無視を助長させる政権がそれでも支持を得る今の時代こそロックの出番じゃないかと思うのですが。

アツシ:……難しい話はよくわかりません(笑)。

──ロフトをホームグラウンドにしていたバンドから学べたこととは、たとえばどんなことですか。

J:バンドや音楽に全身全霊、すべてを賭けた人たち。バンドが発するオーラや佇まいというか、何か特別なものを身に纏っている人たちが多かった。今でもそういう人たちはいるんでしょうけど、当時は特にそんな人たちじゃなければ生き残れなかったんじゃないですかね。誰よりも尖ってぶっ飛んだものを持っていないと弾き飛ばされてしまう世界だったんだと思います。その気迫や覚悟みたいなものがあの時代には存在していたんじゃないかなと。全国各地からそんな個性の塊のような人たちがロフトへ目掛けて集まってきて鎬を削るわけで、ちょっと楽器が上手いくらいでは埋もれてしまう。だから僕らも自分たちのオリジナリティや個性を確立するのに必死でした。今では笑い話ですけど、僕らは鹿鳴館のオーディションにまだ受かってないんです。だけどその経験によって目を覚ましたところもあって、それなら自分たちらしくやっていこうと固く心に決めたり。そういう反骨精神みたいなものがバンドのアイデンティティとしてもありましたね。

アツシ:僕はナニクソ!みたいな感情は昔からないかな。そういう感情に自分で気づかないっていうのもあるけど(笑)。

──5月10日の共演がますます楽しみになってきましたが、セッションは期待して良さそうですか。

アツシ:僕らはぜひ、お願いしたいと思ってます!

J:その辺りはお楽しみに、ということで。ニューロティカほど新宿ロフトでライブをやったバンドは他にいないわけですし、あっちゃんはロフトを隅々まで知り尽くしたまさにロフトの番人ですよね。そんなロフトの番人が主催するライブに出させてもらえるのは光栄ですし、胸を借りる思いでぶつかっていきたいです。

アツシ:ありがとうございます。じゃあ、Jのバンドは会場入りの10分前に集合してもらって、まずは地下1階の事務所から案内します。

──どういうことですか?

アツシ:いや、ロフトの番人って言われたから隅々まで紹介しようと思って(笑)。それはさておき、当日はひとつよろしくお願いします!

© 有限会社ルーフトップ