賛否両論「シン・仮面ライダー」庵野秀明の “ノスタルジーだけじゃない” 新しい作品  オールドファンも思わずニヤリ! “これぞ仮面ライダー” 的要素を見逃すな!

『賛否両論「シン・仮面ライダー」庵野秀明の “旧1号愛” に公開前から期待値MAX!』からのつづき

旧1号を愛する庵野秀明、「ノスタルジーだけではなく新しいものを」

公開前から我々古手のライダーファンにとっても期待値MAXだった映画『シン・仮面ライダー』。

前回の後半では、大半の昭和仮面ライダーの擬闘を担当された殺陣集団・大野剣友会の存在の大きさについて触れたが、実際『シン・仮面ライダー』のアクション監督を担当された田渕景也氏も、庵野秀明監督からは再三 “大野剣友会らしさ” を求められたという。

田渕氏はその方針を尊重しながらも、自身の感覚で現代風のアクションをも取り入れようとした。しかし、前回でも触れたNHKのドキュメンタリーを見た視聴者の間で話題になっていた通り、現場における庵野監督と田渕氏の考えは一向に噛み合わなかった。

どんなアクションのプランを提示しても庵野監督に受け入れられない田渕氏の苦悩・憔悴ぶりには、見ているこちらまで胃がキリキリと痛くなりそうな思いがするが、一方で庵野監督の、自分の考えが理解されない苛立ちや歯がゆさ、そして迷いもヒシヒシと伝わってくる気がする。

当然のことながら旧1号を愛する庵野監督とて、旧作をそのままリメイクすればいいなどとは夢にも思っていない。「ノスタルジーだけではなく新しいものを」という発言からもそれは窺えるし、興行的にも “新しさ” は当然必要な要素である。

しかしいざ令和の世に、大野剣友会へのオマージュを込めながら新しいアクションを作ろうとした時、庵野監督は制作過程においてその想定外の難しさに直面したのではないか。

大野剣友会は本来、殺陣の専門家である。殺陣とは刀を持って殺し合うこと。その殺気が昭和仮面ライダーのアクションにも滲み出ていたし、今見ても当時の演者はこのシーンの撮影時に無事で済んだのだろうか、大怪我に結びつかなかったのだろうか、と不安になるような危険なアクションが続出している。

ワイヤーアクションに対する庵野監督の発言とは?

一方、“ニチアサ” ライダーのみならずアクションを売りとした現在の作品全般を見渡した時、それらにおけるアクションシーンはどうであろうか。

アクションに対する観客の好みの変化、あるいは俳優に対するコンプライアンスといった理由もあるかもしれないが、動きはよりダイナミックになり、撮影機材や技術の進化により全てがクリアで観やすくなった反面、いみじくも撮影中の庵野監督から吐き捨てるように度々発せられた「ただの段取り」という表現が当てはまるような、ワイヤーとCGの併用による、殺気が感じられない舞踊じみたアクロバティックなアクションが主流になってはいないだろうか。

もちろん、全てがそうではないだろう。時を同じくして観た『仕掛人・藤枝梅安』二部作の殺陣には強烈な殺気を感じたし、どのような作品においてもアクション俳優の皆さんは、我々の想像を絶するほどに身体を張っていることは承知している。

さらにワイヤーアクションに対する庵野監督の「物理法則を無視している」との発言。

物理法則を無視したアクションは、現実味から遠ざかる一方、表現手段としてどこに近づくことになるか。言わずもがな、アニメーションである。アニメーション監督でもある庵野監督にとって、自身の実写作品がアニメーションに近づくことは許せなかったのではないか。

その前提で考えると、ドキュメントに収録されている主演・池松壮亮氏による庵野監督についての発言、

「これは僕の勝手な解釈ですけど、もしアニメーションに勝てるとしたら『肉体感』と『生っぽさ』しかないと思うんで、やっぱりそういうところを探して反応しているんだなと」

これには非常に鋭い洞察を感じる。しかしながら、撮影がある程度進んだ段階で庵野監督から、

「僕はもうワイヤーは禁止にして欲しい。絶対に使わない。ワイヤーでやっても僕の感覚だと物理法則を無視している」

との発言がなされたことに対し、正直なところアクション監督をはじめとするスタッフたちは内心、「今になってそれを言うか?」と思ったことだろう。ドキュメント映像から感じられる現場の険悪な雰囲気はそれを如実に物語っている。

好意的な言い方をすれば、撮影が進む中においても庵野監督は、さまざまなことと戦っていたに違いない。例えばそれは「オールドファン」を「イラッと」させない作品を作るという使命であり、一方でワイヤーアクションも違和感なく観ているような「今の青年や子ども」にも楽しめる作品を作るという使命、そして何より興行的に成功を収める作品を作るという使命だったのではないだろうか。

そしてその「戦い」の結果は、皆さんがその目で確かめてほしい。

テレビ版旧1号編や石森章太郎の漫画を彷彿

前置きが長くなったが、完成した『シン・仮面ライダー』を少なくとも私は楽しく拝見した。

ニチアサのライダーは “甘口の酒”、とまでは言わずとも、“口に合わない” と嘆き続けてきた私のような者が身勝手な言い方をすると、甘口か辛口かはさておき、ついに自分の口にも合う『仮面ライダー』を庵野監督はじめスタッフとキャストの皆さんが送り出してくださったことに対し、深い感謝の念を禁じ得なかった。

何よりも「心ならずも改造された者の苦悩と悲哀」、「バイクを駆って敵と戦うスピード感溢れるかっこよさ」、そして「改造人間同士の暗闘」といった ”これぞ仮面ライダー” な要素をフルコース状態で眼前に提示されたことが涙が出るほど嬉しかった。

冒頭の暴走トラックの「三栄土木」という表示や、商店街のシーンにおける「影村めがね店」の看板など、オールドファンをニヤリとさせてくれる細かい小ネタも散りばめつつ、テレビ版旧1号編や石森章太郎先生の漫画版を彷彿とさせるシーンには原典に対する溢れんばかりの敬意を感じたし、2号登場以降におけるダブルライダーの戦いぶりには「技の1号・力の2号」を前面に出した演出があり、思わず力が入った。

余談ながら三栄土木とは度々昭和ライダーの撮影が行われたロケ地のひとつの通称であり、影村めがね店は旧1号編における蜂女の回に登場しためがね店である。

赤い背広姿のロボット刑事が登場!

またオールドファンへの嬉しいプレゼントとしては、赤い背広姿の「K」の登場が挙げられる。

これは、同じく石森先生原作による『ロボット刑事』(1973年)からのゲスト出演であり(こちらについても拙文『石ノ森章太郎原作「ロボット刑事」ヒーローの弱さを堂々と描いた画期的作品!』をご参照されたい)、今回は刑事でこそなかったが、そのどこか人間臭い性格設定には元ネタに通じるものがあった。

以前、漫画版『ロボット刑事』の完全版が復刊ドットコムから刊行された際、庵野監督がその帯に短いながら熱烈な賛辞を寄せられたことは記憶に新しいが、まさかこのような形でのKの登場は予想だにしておらず、同じく “ロボ刑好き” である私は、本作初見時に客席で思わず声をあげそうになったものだ。

それ以外にも、本作で新鮮に感じられた描写のひとつに、敵の攻撃を受けたライダーが、そしてライダーの攻撃を受けたショッカー戦闘員が血ヘドを吐いたシーンが挙げられる(戦闘員の血ヘドに関しては漫画版にもその描写はあった)。

なるほどライダーも戦闘員もロボットではなく、あくまでも “改造人間” である。だからまだ “人間” の部分が残っているからには、相手の強烈なパワーによる攻撃を受けると、内臓が破裂したり口の中を切ったりすることもあるだろう。

そんなリアルな演出が施された反面、今回の怪人(オーグ)達の頭部の造形の多くが、まるで電飾を施したメカにしか見えず、生物感が希薄だったことが惜しまれた。

一方で、やはり難しかったかと思わざるを得なかったのは、怪奇色が薄かったことである。極論ではあるが、今になって昭和40年代頃のドラマを見ると、怪奇物のみならず刑事物であれメロドラマであれ、ジャンルを問わず大抵の作品には怖さを感じる。

その理由のひとつには恐らく、まだ当時の日本は “夜が暗かった” ことが挙げられるであろう。

繁華街における不夜城はあったとしても、コンビニの存在もほぼ皆無であった当時は、都会か地方かによらずまだまだ日本の夜には「魔」が潜んでいそうな暗がりがそこかしこにあった。ゆえにショッカーの怖さも引き立ったのである。

さらに言うと1号ライダー放送当時、1971年という時代の空気。終戦から26年という年月しか経っていなかった当時は、まだまだ国民の大半は戦争を知っている世代だった筈だ。原作者の石森先生をはじめとする『仮面ライダー』制作スタッフも同様。

そんな当時において、ナチスの人間改造技術を取り入れ暗躍するショッカーの存在は、制作スタッフにとっても戦争という「怖い存在」の影を引きずっていたと思うし、戦争を知らない世代の視聴者にもその底知れぬ怖さはじんわりと伝わってきたと考えられる。

さらに怖さの理由を挙げるとするなら、それは当時のフィルム画質である。あのザラついた質感で捉えられた被写体は、大抵のものが怖く映った(余談ながら当時の女優さんのメイクも、今見ると怖く見えることが多い…!)。

ところが今の映像のクリアな画質には、本作におけるせっかくの陰鬱さも打ち消してしまうほどの残念な明瞭さがあるのだ。

以上の要素は昭和40年代という時代ならではのものだし、いずれもこの令和の世では求めようのないことばかりである。

ゆえに現代における怪奇の表現はサイコなものかショッキングなものが大半を占めている気がするし、それらはどちらかといえば「怪奇」というよりも「恐怖」に属する。だから『シン・仮面ライダー』のあるべき姿はそのどちらとも相容れることがなく、結果的に怪奇色の希薄な作品となった。

そこからの繋がりでいうと音楽も同様。劇中で何曲か使われた菊池俊輔先生の当時の音楽は、改めて聴いても実に陰鬱で怪奇な魅力横溢だったが、怪奇色の薄い本作の世界観にハマっていたとは言い難い部分もあり、新たに書き下ろされた岩崎琢氏の音楽にも当然のことながら怪奇色は感じられなかった。

オールドファンも楽しめる「シン・仮面ライダー」

―― などと好き勝手なことを書き連ねてきたが、やはり私はこの『シン・仮面ライダー』という作品が、何度も観たくなるほど好きで、観るたびに深く好きになってゆくのを感じる。

言い換えると、庵野監督がオールドファンをも楽しませるために、現場の空気を悪くしてでも悩み苦しみながら本作を作ってくださったことに、ひれ伏して感謝したい心境なのである。

先ほども少し触れた映画『仕掛人・藤枝梅安』二部作(監督:河毛俊作)は、実に作り手の迷いを微塵も感じさせない作品であった。

一方でこの『シン・仮面ライダー』は、(ドキュメンタリーを見てしまったばかりにそう感じるのかもしれないが)言葉を選ばずに言うと、作り手の迷い・戸惑いが、まざまざと感じられる作品であったと言える。

古手のライダー好きにとってみれば、この令和の世にノスタルジーと新しさを併せ持った仮面ライダーを生み出すのは生易しいことではないと、素人なりにも感覚的に解るゆえに、真摯に悩み抜いてくださった庵野監督と、そんな監督に歯を食いしばって付いていったスタッフとキャストの皆さんには、ただただ感謝あるのみなのである。

そして公開後に庵野監督の口からその構想が語られた続編(石森先生が描かれた漫画版の最終エピソード「仮面の世界」を元にした内容であるとか)にも期待絶大なのだ!!

カタリベ: 使徒メルヘン

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