「一音」を徹底的に追う!音はどのように届く?背景に膨大な物語【榎政則の音楽のドアをノックしよう♪】

「一音成仏」という尺八の言葉があります。これは、一つの音を吹くだけで悟りの境地に到達することを言い、尺八演奏の究極の姿だとされています。実際に尺八の音色は変幻自在で、澄み切った繊細な音から、激しく荒々しい音まで、様々に演奏可能でまさに「一音成仏」を為しえる楽器のように思います。

一方でピアノはどうでしょうか。基本的にピアノの音は平坦で、どの音域でもどの強度でも同じような音色になるように楽器が出来ています。そして、鍵盤を一回押すだけで音が出せるという簡単さから、膨大な量の音を弾きこなすことができるという性格を持っています。よって、なかなか「一音成仏」というのは難しいかもしれません。

しかし、あなたがピアノのたった一音を聴いたとき、その背景には膨大な物語があるのも確かです。その一音の物語を追ってみましょう。

作曲家が生み出した一音

西洋クラシック音楽は、楽譜が一種神聖化されているところがあります。これはキリスト教文化の影響が強く出ているのかもしれません。不可侵な聖書という存在があり、宗派はその解釈の違いによって現れる、ということは、不可侵な楽譜という存在があり、演奏はその解釈の違いによって現れる、ということと非常によく似ています。

それでも出版社や演奏者によって音を変えられることは往々にしてありますが、やはり作曲家が書いた楽譜というのは絶対的な権力を持っています。

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それでは作曲家はどのように楽譜を書くのでしょうか?それは作曲家がそれまでの人生で触れてきた音楽と、その時の思い付きの融合です。時代によってスタイルがあり、異なる作曲家が似たような音楽を作るのは、それまでの音楽文化の発展の過程があるからです。一方で、どんどん新しいスタイルが出来上がるのは、それぞれの時代で、発想力が豊かな作曲家が新しい響きを思い付き、挑戦してきたからです。

どんな作曲家にも共通した思いがあります。「今までにない新しい響きを作りたい」という思いです。これが無ければ新たに作曲をする必要が無いからです。

このように、楽譜に書かれた音というのは、何千年という音楽の歴史と、作曲家の個性が結びついたものなのですね。

出版と校訂

楽譜に書かれた音は、すぐに人々の元に届くわけではありません。それが出版社や校訂者の手によって、間違いが修正されたり、あるいは表現を書き加えられたりすることがあります。それは作曲家との共同作業であることが多いのですが、いずれにせよ、出版されて演奏家たちの元へ楽譜が届くまでには、多くの人の手を介して校訂が行われます。現代ではこの過程がだんだん短くなってきていますが、ベートーヴェンやショパンといったクラシックの大作曲家たちはこの過程が非常に長く、またものすごい種類の楽譜が出版されています。 たった一音に世界中の音楽研究家たちが集まって議論することもまったく珍しいことではありません。

膨大な練習と研究

楽譜がピアニストの元に届き、これを演奏会で扱おうとなったら、そこから膨大な練習が始まります。クラシックのピアニストであれば、全ての音を覚えて演奏する、いわゆる「暗譜」という形で演奏するのが普通です。1曲中何千何万とある音符すべてに対して、意味を考え、表現を作り上げていく膨大な作業になります。これを成し遂げるために必要なのは毎日何時間という練習と、その音楽に対する研究です。これはピアノそのものと、曲に対する愛着がないとなかなかできるものではありませんね。

楽器制作

ここまでは、どのように曲が出来上がるかという話でしたが、まだ音にはなっていません。音にするために必要なのはやはり楽器です。とくにピアノという楽器は数ある楽器の中でも圧倒的に複雑な機構を持ち、各ピアノメーカーによっても制作過程や製造理念が異なります。いくら大量生産品であっても、完全に機械のみで制作するのは不可能なほど複雑で繊細な楽器となっています。弦の素材やハンマーの素材を変更したらもちろん大きく音色は変わりますし、ピアノの湾曲も少し異なるだけで音の広がり方や音色が変わります。 ピアノ制作も、曲とおなじだけの歴史と技術が詰まった非常に奥の深い世界です。

音響を整える

さて、ここまででようやく曲とピアニストとピアノが揃いました! 音は空気の振動ということはご存知だと思いますが、実際にどのように空気が振動するかというと、ものすごく様々な要因が絡んできます。

ホールで演奏するのと野外で演奏するので聞こえる音が異なることは直感的にもわかると思いますが、このように音響は音の聞こえ方にとても大きな影響を与えます。 音響の要素として大切なのは、以下のようなものです。

・ピアノの調律 ・ホールの反響 ・観客の入り ・外部の雑音

特にホールにどのくらい観客が入っているか、というのは音響にとってものすごく影響があります。満席なのか、半分くらいなのか、まばらにしかいないのか、ということで大きく変わってくるため、調律師・ホールの音響係・ピアニストは本番の観客の入りを予想して音響を組み立てます。経験が少ないピアニストだと、観客が入ったら思ったより音が鳴らなかった、と思うこともあります。これに関しては、何度も場数を踏んだり、他のピアニストのリハーサルと本番を聴くことで徐々に経験として身についてくるものです。

観客の耳に届く

作曲家が書いた音が、音響技師・調律師たちによって整えられて、ピアニストの手によって、ようやく音になります。 ピアニストは何度もイメージトレーニングして理想化した音を出すために、全身を使って指の動きをコントロールし、その動きがピアノの鍵盤を動かし、ピアノ内部の複雑な機構に力が伝わり、ハンマーの根元を叩き上げて、ハンマーの先のフェルトが弦に接触し、それによって生じた弦の振動はピアノの響板を震わせ、それが空気に伝わって広がり、ホールの中で音が何度も反響し、観客の耳と肌に届きます。

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耳に届いた音は内耳の蝸牛に到達し、その中にある有毛細胞を振動させ、その刺激を電気信号に変えて神経を通って脳に到達します。このとき、電気信号はクオリア(感覚質)と呼ばれる主観的な質になり、まさに「音」として感じることができるのです。

また、力強い音は耳だけでなく、肌全体で感じ取ることができます。これは、より圧倒的な音の迫力を感じさせますね。

この音をどう受け取るかは観客次第です。 照明が暗ければ音に対する集中力は増えますが、逆に眠くなってしまいます。観客が多ければ臨場感がより増しますが、逆に雑音が増えてしまいます。寝不足の人は聴覚が多少鈍感になってしまいますし、心配事がある人はなかなか集中して音楽を聴くのが難しいです。このように様々な要因で、同じように聴いていても、周囲や観客のコンディションによって受け取り方が変わります。

好きな曲だったり思い入れのあるピアニストだったりすれば、音以外の要素も感じ方に大きな影響をもたらします。ピアニストや音響技師達が作り上げてきた理想的な感じ方を全員が同じように享受することなどはありえません。ただ、たった一音でもこれだけ長い時間をかけて、たくさんの人たちの思いを乗せて、あなたの内に生まれた一つのクオリアとなるのです。

音の物語を追ってみよう

作曲家のペン先のインクが、音となって自分の耳に入り、感覚となる過程を見てきました。このようなイメージをすると、たった一音の中にも多くの物語を感じることができるかもしれません。

この音が好き!という音に出会ったら、その音の物語に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。(作曲家、即興演奏家・榎政則)

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 榎政則(えのき・まさのり) 作曲家、即興演奏家。麻布高校を卒業後、東京藝大作曲科を経てフランスに留学。パリ国立高等音楽院音楽書法科修士課程を卒業後、鍵盤即興科修士課程を首席で卒業。2016年よりパリの主要文化施設であるシネマテーク・フランセーズなどで無声映画の伴奏員を務める。現在は日本でフォニム・ミュージックのピアノ講座の講師を務めるほか、作曲家・即興演奏家として幅広く活動。

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