男闘呼組「今のために活動休止したのかも」再始動そして解散へ

バンドブーム前夜の1988年、ジャニーズ事務所からデビューした4人組ロックバンド・男闘呼組。デビュー曲『DAYBREAK』や『TIME ZONE』などのヒットソングを生み出すも、人気絶頂の1993年に突然活動を休止した。

そんな彼らが、30年の時を経て活動再開と同時に解散公演を決行。21都市を巡回するラストライブツアー直前、大阪に集まった成田昭次、高橋和也、岡本健一、前田耕陽の4人に話を訊いた。

2023年8月までの期間限定で再活動した男闘呼組のメンバー。左から岡本健一、前田耕陽、高橋和也、成田昭次 (4月28日・大阪市内)

取材・文/Lmaga.jp編集部 写真/バンリ

■ メンバーの音楽背景、岡本健一の師匠は昭次

──50代の私にとってみなさんは、アイドルという位置づけではなくロックバンドという認識です。まずは音楽的背景を伺いたいのですが。どういった音楽を聞いて、どんなミュージシャンに影響を受けてこられたのでしょうか?

岡本健一(以下健一)「父のジャズレコードがいっぱいあったんですよ。オスカー・ピーターソンとかアート・ブレイキーとか、すごい聴かされてたのと、(エルヴィス)プレスリーも大好きで、落語も好きだった。落語とプレスリーとジャズばっかりだったけど、一番音楽の影響を受けたのは、中学1年生の頃に始まった『ベストヒットUSA』ですね。そこから洋楽に気持ちが行きましたね」

幼い頃聴いていたレコードは「落語とプレスリーとジャズばっかり」と話す岡本健一(右)

──ギターはその頃から弾いてるんですか?

健一「いや、弾いてないんです。貸しレコード屋さんで、デュラン・デュランとかカルチャー・クラブ、AC/DC、デフ・レパード、マイケル・ジャクソンとかを借りるくらいで、実際に楽器に触れたのは、事務所に入って昭次に出会ってからですね。昭次がマイケル・シェンカーフリークだったから、『Armed and Ready』 って曲で『俺がソロを弾くからバッキングを弾けて』と言われて」

前田耕陽(以下耕陽)「『弾けて』って、名古屋弁で(笑)」

健一「名古屋弁で(笑)。で、ちょっと教えてみたいな感じで、習い始めたのが始まり」

──じゃぁ、昭次さんが健一さんのギターの師匠?

健一「そうなりますね。『指2本でガーッと弾いて、ディストーションをかければめちゃくちゃ簡単だから』みたいな。でも、簡単じゃないじゃない。俺は最初はそんなバッキングから。で、自分でもギターって楽しいなって」

■ 成田昭次「野村義男さんに教えてもらった」

──昭次さんは、どんな音楽を聴かれてました?

成田昭次(以下昭次)「僕も親父が音楽好きで。それこそ、最初はザ・ベンチャーズでした」

高橋和也(以下和也)「ベンチャーズ弾いてたね。一時期ね」

昭次「車でもずっとベンチャーズで、インストゥルメンタルじゃないですか、『ダイアモンド・ヘッド』とか『パイプライン』とか自然に耳に焼き付いちゃってて。ほかにも親父が好きだった50sのレコードとかTOTOもあったし。で、ひとつ上の兄貴が最初はギターをやりだして、ロカビリーにハマって、ウッドベースを弾き始めて、ブライアン・セッツァーにハマったんですよ。そこから僕もギターを弾くようになって、僕の親友も始めて・・・。それがマイケル・シェンカーだった。その親友から僕も最初、『弾けて』ってバッキングやらされて(笑)」

一同笑

健一「『Armed and Ready』を流して」

昭次「そう、あれが登竜門なんですよ。80年代初頭ですよね、HRとかHMの音楽シーンが海外で盛んで、国内ではラウドネスとか、44マグナムとか・・・。そこから東京に出て、野村義男さんにいろいろ教えてもらったんですよ。逆行してクラシカルなロック、60年代とか、ローリング・ストーンズ、ザ・ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、ラット・・・とか、こんなん聴いたほうが良いと教えてもらって」

──どんどんロック漬けになっていきますね。

昭次「デビューする前にしょっちゅう遊びに連れて行ってもらっていて。生演奏やってるお店がいろいろあるんですけど、そこに一緒に行って、野村さんにいきなり『おまえもステージ出てギター弾け』とか言われるんですよ(笑)」

──実践のなか、体で覚えろと。

昭次「結構スパルタでした(笑)。そういう経験もあるから、そういうのも僕に反映されてるんじゃないかな。自分が影響受けて『いいな』と思ったものはメンバーにも伝えて、お互い共有して共感できる環境にあったし。それから、ボン・ジョヴィやガンズが出てきたり」

「スラッシュになりたいと思ってた」と話す成田昭次(右)

──ガンズ・アンド・ローゼズの登場は衝撃でしたね。

昭次「ガンズが大きかったかもしれないですね。それまで80年代はグラマラスなビジュアルで、L.A.でもそんな音楽シーンが盛んだったんですけど、ガンズが出てきて、どろ臭い古典的なサウンドだったんですよ。それをみんなで初来日コンサート観に行って。そのときの影響、刺激は大きかったよね」

和也「中野サンプラザの初来公演ね」

昭次「ちょうど僕がスラッシュ側で。スラッシュがタバコをくわえながら、上半身裸で、ノーパンで、ジャック ダニエルを飲みながらギターソロをずっと弾いてて、PAの音よりもマーシャルアンプからの音がダイレクトに聴こえてきて・・・。そこからスラッシュにハマりましたね。スラッシュになりたいと思いました」

耕陽「なろうとしてたよね(笑)」

昭次「それくらい影響受けましたね。マイケル・シェンカーから始まって、次にスラッシュですね」

──身近に野村義男さんがいたっていうのも、やはり大きかったんじゃないですか。ジャニーズでまさかギターを。

昭次「そうなんですよ。先輩に野村さんがいたっていうのがすごかったですよね。大きかったです」

健一「めちゃくちゃ上手かったよ。今考えたら、まだよっちゃん20歳くらいだし。なんでも弾けましたもん。右でも左でも両方で弾けるんだもん。どの曲でもかかったらすぐコピーしちゃう」

──その年齢でそれは超人ですね。

健一「本当にね。すごかったね(笑)」

昭次「マンツーマンでいつも教えてもらってたし。朝までずーっと」

──贅沢な時間ですね。どんなことをやってたんですか?

昭次「どちらが長く弾いてられるかって。眠くなるじゃないですか、でも『やめちゃダメだっ!』って(笑)。ずっと弾き続けなきゃいけないんですよ。ソロの弾き合いで。そこまではあんまりしないよね」

和也「そりゃうまくなるよね」

■ パンクにはまった高橋和也「なんてやらしい」

──和也さんが楽器を始めたのは、おじさんの影響と伺いましたが。

和也「母方のおじさんが、『上を向いて歩こう』を作曲された中村八大さんのバンドにいて、ベースマンだったんですよ。僕が小さい頃なんですけど。で、母は歌手になりたかったみたいで、家でよく歌ってたんです。急に陽気なって踊りだす人で」

耕陽「お母さんが? え〜!」

和也「そう。小さい頃にそういうのを見てて。僕の親父さんはカントリーミュージックが好きで、新宿でカントリー・バーをやってて。だから親父さんの店に行くとカントリーが流れてるみたいな。ま、やっぱり小学生のときにはジュリー(沢田研二)とか、ツイストとか、ピンクレディーとか、歌謡曲を聴いて喜んでたんだけど、中学生の頃に不良の先輩のたまり場に行ったら、ラジカセの大音量でセックス・ピストルズをかけてるんですよ」

──おぉ。そんな世代で聴くパンクロックは刺激的ですね。

和也「初めて聴いて、なんだこれっ!ってなって。この音楽なんですか? って聞いたら、『セックス・ピストルズ』だよって・・・。セックスって言葉を覚えたばかりなのにいきなりセックス・ピストルズって言われて。なんていう、やらしい名前だと思って」

一同笑

和也「当時のLP盤のジャケットに、どうしようもないロンドンの不良4人の写真があるわけですよ。ギザギザに切ったシャツを安全ピンで留めてたり、ジャラジャラの鎖をつけてたりとか、『なんだこの人たち!』と思って。でもその音楽にすごいハマっちゃって。ポール・クックのドラムが、僕にとってはすごいカッコよかったんですよ。で、ドラムをやりたいと思って新聞配達のアルバイトをして、お金をためてドラムセットを買おうと」

──中学生なのに、すごい行動力ですね。

和也「先輩からドラムセットを譲ってもらおうと思ってね。そのあと高校進学の時期になったとき、全然勉強できなかったし、スポーツもそんなに得意じゃないから、芸能界に行きたいなって思って。で、行くのならジャニーズだなって履歴書を送ったら落とされちゃったんですよ。でも『どうしてもやりたいです』って毎週通い詰めて事務所に入って、ドラムをやってるなら昭次がギターを弾いてるから一緒にスタジオに入ったらどうだって。それが最初だね」

昭次「ね。最初はドラムだったよね(笑)。スティック持ってきてた」

健一「パンク少年だったよね」

和也「パンクが大好きだった。(日本のパンクバンドの)アナーキーやザ・スターリンも、のちにみなさんとは知り合いになるんですけど。なんか、危ない音楽がすごい好きだったんですよ」

──そんな背景があるのは、ちょっと意外でした。

耕陽「だから、曲中に『おい!おい!』っが出てくるわけだよね」

和也「ま、親父さんの店ではカントリーが流れてるし、パンクも好きだし、でも逆にたのきんトリオなんかにもすごく憧れがあったわけですよ。少年の頃って新しいことに出合うと全部好きになるじゃないですか。そういう意味では、いろんなのを聴いて育ったなと思います。で、はい、耕陽ちゃん」

「パンクが好きだった」という高橋和也(右)と、キーボードは「気持ちいいフレーズだけ弾いていた」という前田耕陽

■ 前田耕陽「あのイントロ弾いてみたいって」

耕陽「そうですね。僕は小学校1年から3年生までピアノを習ってたことがありまして。それが、嫌で嫌でね。当時はサッカーとか野球の方がやりたいじゃないですか」

健一「それは親から言われたの? これやりなさいって」

耕陽「姉が習ってて。どうせ先生が来てくれるから、あんたもやりなさいって。やれって言われると嫌じゃないですか。練習も、どうやってサボるかずっと考えてて。そうこうしているうちに小学生のときは、たのきんも聴いたり、西城秀樹さんとかも聴いてたんですけど」

──小学生くらいはみなさん同じような感じですよね。

耕陽「それで中学に入ったとき、友だちにオフコースを聴かせてもらって、あのメロディラインにしびれまして。そこからニューミュージックの世界に。松任谷由実さんや佐野元春さんなどを結構聴くようになって、それから洋楽に入っていくっていう。しかもポップなデュラン・デュランとかマドンナとか」

和也「マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』とかすごかったね」

耕陽「すごかった。シンディ・ローパーもいたしね。そういうのをいろいろ聴いてるときにたまたま、ジャーニーの『セパレイト・ウェイズ』を聴いたんですよ。そしたらあのイントロで、これ弾いてみたいってなって」

──そこかぁ。かなり印象的なフレーズですもんね。

耕陽「うちにピアノがあったんで、イントロだけずーっと弾いてましたね。だからはじめにメンバーと会ったときも、弾けるよって『セパレイト・ウェイズ』を聴かせた記憶があるもん」

昭次「だけど、イントロしか弾かない(笑)」

一同笑

耕陽「でも当時は、周りにキーボードがいなかったんだよね」

健一「いなかった。良かったよね。うわぁ『セパレイト・ウェイズ』だ、すげぇなぁって」

耕陽「ヴァン・ヘイレンの『ジャンプ』とかね、あのあたりを弾いてみたいなって。でも曲全部を弾いてみたいって気持ちにはならないんですよ。気持ちいいところだけ弾ければって」

──楽器初心者あるあるですね。

耕陽「まあ、そういうルーツですかね。あとは、今でもオフコースとかをたまに聴くんですけど、コード進行で普通じゃないコードを使ってるので、これはこのコードのはずなんだけど、なんか響きが違うなって調べたら見たことのないコードを弾いてたりとか。そいういう意味でニューミュージックの人からも勉強させてもらいましたね」

■ 男闘呼組内でメンバーの自我が覚醒

ファーストシングル『DAYBREAK』(カップリング曲:ロックよ、静かに流れよバージョン)のジャケット写真を再現

──お話を伺ってると、4人それぞれがいろんなジャンルの音楽を聴かれているので、作られる楽曲の幅も広いですよね。シングル『エンジェル』(1991年)あたりからみなさんの手で作曲されていますが、この頃から楽曲の雰囲気がガラッと変わった感じもあります。

和也「やっぱり初期はマーク・デイビスっていう作家がいて、完全にプロデュースされた世界観で男闘呼組をやってたわけですけど。でもそれが世間の人たちにものすごい受け入れられて、ファンもそこで一気につかんだんだけど、自分たちでプロデュースするようになって、ホントの自分たちの姿がどんどん見えてきて」

──自我が出てきたときというのは、どの頃ですか?

耕陽「5枚目のアルバム『5−1 非現実』(1992年)くらいから、『みんなのやりたい方向性をもっと全面に出していこう』ってことになって、アルバムに入ってるのもちゃんと個性が出てる。それぐらいからじゃない?」

昭次「そのひとつ前の4枚目『I’m Waiting 4 You』(1991年)から全部自作曲のフルアルバム。それは試行錯誤しながら、まだ発展途上でね。4枚目のときは、模索しながらやってる感じだったんだけど、5枚目で結構炸裂したんですよね」

耕陽「あと、5枚目から聴いてもらえばわかるんですけど、シンセ音がほとんどなくなってるんですよ。僕が、『もうシンセやだ、オルガンかピアノだけにしようよ』って。それがライブをやるときはラク(笑)。音を作るのがキーボードは結構ややこしくて。オルガンとピアノだったらサクッとできるじゃんって」

──骨太の音色になるうえに、誤魔化しがきかなくなるじゃないですか。男前ですね。

耕陽「いやいや。でもメンバーもシンセ音より・・・」

和也「そう、わりと当時流行ってたサウンドよりもちょっといなたい、古い感じのサウンドが僕なんかは好きで。アコースティックギターとかどんどん弾きだしたりとかね。サウンドが、よりロックっぽくなっていった」

昭次「だから、すごいシンプルになりました。個人的にはコードは3つでも、1つでもいいじゃないかって思う」

──かっこいいですね。究極の曲作りですよね。

昭次「極論言っちゃえば、そういところまで突き詰めていけたらって始めたのかもしれないですね、5枚目は」

和也「あのときすっごい俺は楽しかったんだよね。アルバムを3枚作って、毎月1枚ずつ発表してとか(注)。今思うと、レコード会社も好きなようにやらせてくれたし・・・」

(注)1992年6〜8月に、『5−1 非現実』『5−2 再認識』『5−3 無現実』と3カ月連続でアルバムを発表

健一「友だちの曲のカバーをやったりとか」

和也「全然無名のシンガーなんですよ。そういう人のカバーをやったりとか。それが名作としてジャニーズJr.が歌い継いでるぐらいの曲になってて。だから、考えてみればあのときに作ったものは財産だよね。僕らにとって、今でも。あれがあるからこそ、今もみんなが音楽を、バンドを続けてる。それぞれソロでバンドを持ってますからね。だから、きっかけは男闘呼組時代にセルフプロデュースをやって、自分で曲も歌詞も書いて、作るっていうおもしろさに目覚めたのがきっかけですよね」

■ 新バンド「ロックオン・ソーシャル・クラブ」

──4人を中心に元ジュン・スカイ・ウォーカーズの寺岡呼人さんらと結成したバンド「Rockon Social Club」のアルバムも聴かせていただきました。このバンドの楽曲の幅広さもすごいですね。いきなり1曲目はメタル。

健一「デスメタルかって(笑)」

──めちゃくちゃカッコよくて。また、3曲目『Rolling Thunder Baby』のイントロのギターリフはディープ・パープルの『Burn』の雰囲気ですもんね。

昭次「そうそう(笑)」

──「めっちゃかっこええやん」って聴かせていただきました。その一方で、9曲目には『テ・キーラ・ムーチョ』があって。

和也「ラテン系のね」

──呼人さんがプロデュースされてるというのもあると思いますが、今日お話を伺って、いろんな音楽ジャンルに触れてきたみなさんの背景も影響あるんだろうと改めて感じました。

■ 50代で30年越しの再開「このための休止」

──ところで8月まで続く男闘呼組のラストライブツアーでのセットリストは、初期から後期までの楽曲をまんべんなく選ばれたのですか?

和也「そうですね。ごく初期の曲もやるし、ほんとに後期の曲もやるし。ただ、僕らが50代で出せる一番良いサウンドを届ける、それが自分たちでも一番納得できる」

健一「ラストツアーに曲を選ぶのに、まず100曲以上あるんですよ。結構良い曲がいっぱいあって。みんなで出し合って、どれも良いし・・・」

和也「僕らの好みばっかりになっちゃうといけないので、ファンの人たちが聴きたい曲ってどういう曲なんだって、例えばファンが選ぶベストテンとかベスト100とかをみんなで調べて、やっぱこの曲が人気あるよ、これは外せないよと。やりたい曲と、今の自分たちがカッコよくできるものと、ファンの聴きたいものをミックスしながらメニューを考えましたね」

健一「そういう曲を30年ぶりぐらいに、50過ぎて演奏をやるとね・・・。ホント20〜30年間いっさい演奏してなかったから、初心に返った感じで向き合うんですよね。ちゃんとね、フレーズの耳コピから始めて(笑)。これ間に合うのかな? っていうのか、できんのかなって」

昭次「当時もライブでやらなかった曲を今回やってるんですよ。10代〜20代のときもライブで再現しなかった曲を、まさか50代になって再現させられるとは(笑)。難しいって言うか・・・」

健一「そう。あと、これは今歌うべき歌なんじゃないかなって・・・。歌詞の内容だったりが早すぎた」

和也「早すぎた! 30年早いって、相当早いからね(笑)」

健一「88年にデビューしたのは、『今のためにデビューしたんじゃないか』『このために活動休止になったんじゃないか』って思いますよね、ホントに」

昭次「当時は、そのときの俺たちの年齢よりもませてた。だいぶ背伸びをした感じがあったんですよね。だから今回音を出す前は、若いときの曲を50歳過ぎて成立するのかって思ったんですけど、意外と逆だったんですよ」

ラストツアーのポスターを前にメンバーが揃った男闘呼組。左から前田耕陽、高橋和也、岡本健一、成田昭次

──久しぶりに演奏するにも関わらず、歌詞はしっくりくるんですね。

昭次「今の方が。難しいんですけど、成立してる。曲と自分たちの距離感っていうか・・・」

健一「もちろん今のお客さんのなかには、昔ファンでいっぱい待っててくれた人たちもいるんだけど、当時は生まれてない人たちやコンサートを観たことがない男の人たちとか、アルバムは再販してないから初めて聴く人も多いと思うんですけど、ライブではそんなの関係無しにみんな楽しんでる。これは男闘呼組の楽曲の持つスゴさなのかなって。そこで助けられてるんですよね」

和也「僕らは4人が歌うから。ボーカルがひとりでひと色のバンドじゃなくて、4つの色を出せるっていうのが強み。それぞれが男闘呼組の活動を休止していた間の人生経験で、自分たちが経験してきたものを音楽のなかに投影できるじゃないですか。それがすごく良い感じで、昔は出せなかったサウンドになってるんじゃないかなって思うんですよね」


2022年7月に期間限定の活動再開を発表し、世間を賑わせた彼ら。同年10月に東京・愛知・大阪でのコンサートを終えた後、2023年4月の大阪公演を皮切りに『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』ツアーをスタートさせ、現在は全国22カ所を巡回している。そして解散公演『男闘呼組 LAST FOREVER』は、8月に「日本武道館」で4DAYS決行。一般発売は8月5日より。

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