反戦へ「気持ち一つだった」 60年安保闘争63年 デモ参加した三木の赤松さん、中ロ動向を憂慮し「声上げる問題、見抜いて」

安保闘争の国会突入で死者が出たことを伝える1960年6月16日付の神戸新聞

 1960(昭和35)年6月15日、国会に突入したデモ隊と警官隊が衝突し、1人の女子学生が死亡した。東大4年の樺(かんば)美智子さん=当時(22)、神戸高校出身。その死は当時の岸信介内閣退陣へとつながり、結果的に戦後日本の歩みを変えた。死者を出したものの、基本的には非暴力だった社会運動として再評価の声も上がる「60年安保闘争」。学生らを駆り立てたうねりの正体は何だったのか。あの日、デモ隊の後方にいた兵庫県三木市の女性(83)に聞いた。(森本尚樹)

 赤松彰子さんは当時、日本赤十字中央女子短大(東京)の3年生。動員に応じ、仲間と渋谷から国会周辺に向かった。

 岸内閣は5月、日米安保条約改定案を強行採決。6月19日の自然成立を前に、軍備拡大への警戒感や政権への怒りはピークに達し、反対運動は勢いを増していた。地下鉄赤坂見附駅付近は学生らでごった返し、隊列を組んで前に進んだ。

 赤松さんの思いは「戦争阻止」の一心だった。「核大国アメリカと手を組めば、戦争に巻き込まれる」と恐れた。運動の盛り上がりは「戦争を拒む若者の純粋な気持ちが一つになっていた」と話す。

 やがて群衆の密度が高まり、押されるままに進むように。「安保反対」と叫ぶ声は「痛い」「押さないで」などの悲鳴に変わった。恐怖感が襲ってきたところに、前方から「人が押し殺された」という声が聞こえてきた。樺さんだった。

 デモ隊は後退を始め、学生らは混乱に陥る。赤松さんはどうやって逃れたか覚えていない。寮に戻ると、仲間同士で「怖かったね」と言い合い、デモには二度と行くまいと思った。

 翌日は再びの衝突に備えて、日赤の救護班が編成された。看護学生の赤松さんは「体制側」要員として国会周辺に配置される。国会前に樺さんの祭壇が設けられていたが、流血騒ぎはなく、救護班は夕方には解散となった。

 その後も学生らの国会包囲は続いたが、19日に安保条約は自然成立。23日に岸首相が退陣を表明した。反対運動は収束し、「政治の季節」は終わった。 ◇

 赤松さんは短大を卒業し、助産師として望まない妊娠をした女性のサポートに従事。その後は「みき9条の会」設立に関わり、平和を守る活動に取り組んだ。

 「人命を犠牲にしながら安保条約は成立し、その後も破棄どころか強化されている。60年安保での挫折感が、活動の原動力になった」と語る。

 ただ、赤松さんは「当時はいちずに『安保反対』を叫んでいたが、(日米同盟の狙いなど)本質を分かっていたかどうかは疑問だ」とも。軍事的に台頭する中国、ロシア軍のウクライナ侵攻など安全保障や軍備を巡る国際情勢が複雑化する今、「本当に声を上げるべき問題を見抜けていないのではないか」と不安を口にする。

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