あの「平成の名勝負」声で支えたのは私です 「感動抑えるのに必死だった」 今、再び「声」の仕事

日本ハム-楽天で、場内アナウンスを務めた鎌田さん=2011年7月20日(提供)

 「あすの先発投手をお知らせします」-。2011年7月、透き通るような声が東京ドームに響いた。たっぷりと間を空けてから名前を告げる。日本球界を代表するプロ野球日本ハム(当時)のダルビッシュ有投手(現パドレス)と、兵庫県伊丹市出身の楽天、田中将大投手。そんな「平成の名勝負」を予告し、試合当日のアナウンスも務めた声の主は今、伊丹市に暮らしている。(久保田麻依子)

 2児の母で、現在はピラティスのインストラクター、鎌田里恵さん(40)だ。

 さかのぼること約12年前-。鎌田さんは、日本ハムの球団職員として多忙な日々を送っていた。2軍の広報や営業、さらには各地の球場で場内アナウンスを担当。そんな中、回ってきたのが、7月20日の日本ハム-楽天の先発予告と、当日の場内アナウンスだった。

### ■大声援に感動

 同じ対戦カードだった19日、六回表の終了後、鎌田さんのやや低音の声が翌日の先発投手を告げた。両投手の対戦は事前に知れ渡っていたが「『待ってました!』という球場の興奮ぶりは、それまで体感したことがないほどすごかった」。

 迎えた20日。チケットは平日では異例の完売。約4万5千人が球場を埋めた。

 ゲームが始まり、アナウンス席から見たスタンドの景色は、誰もがエース同士の対決を心から楽しんでいるように見えた。

 「アナウンスをするたびに跳ね返ってくる声援の大きさに、私自身も感動を抑えるのに必死だった。『冷静に』と言い聞かせていたのを鮮明に覚えている」

 試合はダルビッシュが先制点を許したが、田中も3点を失った。互いに九回まで投げ抜き、3-1で日本ハムが制した。

 「アナウンスは球場には当たり前の存在だけど、場内の雰囲気を左右することもある。名勝負を陰で支える一員になれたかな」と鎌田さん。その後、ダルビッシュは大リーグに挑戦し、この試合が日本での2人の最後の投げ合いとなった。

### ■中学時代から

 北海道出身の鎌田さんが、野球に夢中になったきっかけは中学時代にテレビ観戦した夏の甲子園だ。高校、大学は野球部のマネジャーを務め、大学では試合のアナウンスを担当した。

 一度は就職したが、「野球を支える仕事がしたい」と、球団のアナウンサーを目指した。入れ替わりが少ない狭き門で門前払いが続いたが、諦めずにチャレンジを続けていたら人材派遣会社を通じて道が開けた。

 07年から、主に日本ハムやヤクルトの2軍の試合でアナウンスを務めた。休日も時間があれば1軍の試合に足を運び、先輩からスキルを学ぶ日々。声のトーンや微妙な言い回しは球団ごとに特徴があるといい、「耳が慣れているお客さんが『神宮だな』『ハムだ』と分かるような、安心感を与えるのもアナウンスの役目」と仕事に没頭した。

 10年に日本ハムの球団職員に採用され、1軍のアナウンスを任される機会も増えた。名勝負での経験などを経て、スポーツトレーナーと結婚し、夫の実家がある伊丹市に居を構えた。

### ■かつての記憶

 子育てやインストラクターの仕事に忙しくしながら、自分の声で球場が興奮に包まれたかつての記憶は、心にずっとあり続けた。

 6年ほど前からはスポーツ振興に取り組むNPO法人「伊丹アスリートクラブ」に所属し、主催イベントや子ども向け教室の司会を務める。個人的にも声がかかるようになり、少年野球大会のアナウンスや、市内の小学校での「話し方講座」を任されたことも。

 活躍の場が広がりつつある今、あらためて思う。「声を通して、野球やスポーツのおもしろさを伝える存在になりたい」と。

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