額入りの手紙、実は「らんまん」モデルの牧野富太郎からだった 「西播磨のファーブル」との交流つづる

牧野富太郎が内海功一さんに宛てた手紙=佐用町

 NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルで植物学者の牧野富太郎が、元兵庫県昆虫館館長で「西播磨のファーブル」と親しまれた内海功一さん(故人)に送った手紙が、佐用町の内海さんの自宅で見つかった。20代の内海さんが植物の名前を尋ねたことへの返信で、晩年の牧野が見解を記している。手紙の後もやりとりが続いた記録があり、「日本植物学の父」と若い研究者との交流がうかがえる。

 手紙は額に入れられ、長らく内海さんの書斎に飾られていたという。次女の明子さん(67)は「手紙の存在は知っていたが、差出人が誰か分かったのは牧野さんが朝ドラのモデルになってから」と明かし、「父と交流があったのかとびっくりした」と話す。

 内海さんは佐用町出身。終戦後、中学校などで教壇に立つ傍ら、故郷の船越山や千種川流域の植物の研究に没頭した。シダ植物「ハリマイノデ」の発見にも貢献。兵庫県昆虫館の館長を35年間務め、2016年に90歳で亡くなった。

 手紙は便箋1枚に縦書きで書かれている。封筒には「昭和26年3月16日」とあり、内海さんが牧野に送ったとみられる植物標本への見解がつづられている。

 牧野は鑑定を求められた標本について「ギンリョウソウで一名(別名)ユウレイタケ、又ツユザエモンと申します」と回答。ツツジ科の多年草で、森林に生える腐生植物の名前を挙げ「私の図鑑の口絵になっているもので広く日本に分布しています」と書いている。

 手紙では、自著で「マルミノギンリョウソウ」を「ギンリョウソウ」と紹介していたとして「それは全くの誤りでありました」と謝罪。牧野が自ら誤りを認める姿勢に高知県立牧野植物園の研究員、藤川和美さん(53)=植物分類学=は「牧野博士の真摯さが垣間みられる」とする。藤川さんによると現在、二つの植物は同一のものと考えられているという。

 同植物園が保管する牧野の遺品リストには、内海さんとの標本のやりとりの記録がほかにも残っている。標本が手元に届いた日か作られた日かは不明だが、牧野が亡くなる5カ月前の1956年8月23日の日付が残っており、手紙の後も交流があったとみられる。

 明子さんは「父にとってこの手紙は、額に入れるほど大事なもの。植物関係の人にとって、牧野さんは神様みたいな人だったんだろう」と目を細めた。(真鍋 愛) 【牧野富太郎】1862(文久2)年、高知県の商家に生まれ、ほぼ独学で植物の知識を身に付けた。全国を歩いて植物を学術的に記録し、日本の植物分類学の基礎を築いた一人。兵庫県花のノジギクなど1500種類以上の新種や新品種を発見し、名前を付けた。1940(昭和15)年には研究者らの必携書「牧野日本植物図鑑」を刊行。57(同32)年、94歳で亡くなった。

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