今も飛びっぱなし【沢田研二の新時代】は70年代との決別から始まった!  6月25日はジュリーの誕生日!

80年代の幕開け、ギンギラなコスチュームにパラシュートを背負って登場した沢田研二

「お願い、パラシュートだけはやめさせて!」

1980年の年明け早々、ジュリーファンから、そんな悲痛な手紙を何通ももらったと井上堯之は言う。ジュリーが一度こうと決めたら信念を曲げない男なのは、ファンはみんな知っている。だからこそ、GS〜PYG以来の盟友であり、バックバンドを率いてきた井上に「やめるように言って」と頼んできたのだ。

沢田研二は1980年1月1日に通算29枚目のシングル「TOKIO」をリリース。TVには電飾の付いたギンギラなコスチュームにパラシュートを背負って登場し、世間を驚愕させた。衣裳というよりもはや大道具、いや、セットと言ってもいい。当時、私は中1だったけれども、初めて観たときはマジで腰が抜けるぐらいビックラこいた(盛ってません)。「ジュリーはいったい、どこへ着地しようとしてるんだ?」と思ったもんね。パラシュートだけに。

この「TOKIO」の衣裳は、後にビートたけしが「タケちゃんマン」のコスでパロったように、ひとつ間違えば「お笑い」の世界だ。それがお笑いにならなかったのは「ジュリーだから」なのだが、いくらディケイドが80年代に変わったと言っても、1980年正月の時点では、当然ながら世間一般の感覚はまだ70年代のままで、先を行くジュリーの感性にはまだ追いついていなかった。「なんでトップスターのジュリーが、あんなキワモノみたいな衣裳を着て歌わなきゃいけないの? 今すぐやめさせて!」と井上に懇願したジュリーファンの気持ちはわからんでもない。

「70年代との決別」から始まったジュリーの80年代

私は、井上が亡くなる前に話を聞く機会があり、「TOKIO」の頃はどんな思いでバックを務めていたのか聞いてみた。そもそも井上堯之バンドは、ニューロックを志向するスーパーバンド・PYGが母体であり、井上は「ソロシンガーになった沢田と一緒にロックを追求していく」つもりだった。

しかし、ジュリーの所属事務所・渡辺プロの方針で、ジュリーが歌う曲はだんだん歌謡曲寄りになっていった。正直、井上としてはその路線に付き合うのは本意ではなかったが「でも、沢田はいいヤツなんだよ。だから困った。最終的にそこは割り切って、黒子に徹することにしたんだ」

自分たちがやりたい音楽は「井上堯之バンド」単体でやればいい。TVの歌番組でジュリーのバックを務めるときは、自分たちは映らなくても、あくまでプロとしての演奏に徹すると決めたわけだ。だがジュリーがパラシュートを背負うに至って、さすがに井上も「ちょっと待てよ」となった。

「オレたちは音楽をやってるんであって、バラエティをやるつもりはない。さすがにそこまでは付き合えない」

パラシュートをやめるか、盟友と袂を分かつか…… 二者択一を迫られたジュリーは、後者を選んだ。結果、井上堯之バンドはこの「TOKIO」を最後に、1月24日に解散。心労が重なったジュリーは胃を病んで、しばし入院することになった。

それでもジュリーがパラシュートを背負うのをやめなかったのは、わざわざ元日に新曲を出し、80年代の扉をいち早く開けたことでもわかるように、時代の先端を走りたかったからだ。トップスターとしてはものすごく勇気の要ることだが、それでファンが離れていくなら構わない。自分はもっと新しいことがしたいんだ…… ジュリーの80年代はそんなふうに「70年代との決別」から始まった。

ど派手なメイクでグラム度が高まり、ニュー・ロマンティック路線を突き進んでいく

レコード大賞を受賞した「勝手にしやがれ」をはじめ、70年代後半を支えた阿久悠・大野克夫コンビの曲は80年代以降めっきり減り、「TOKIO」では当時気鋭のコピーライター・糸井重里が作詞を担当。糸井によると、最初は「ニューアルバム用のタイトルを考えてくれ」という発注で、「TOKIO」はいくつか案を出した中の1つだった。これが採用され「じゃあタイトル曲は自分で作詞を」となったそうだ。

とにかく、若くて新しい感性の持ち主とタッグを組んで、新しい音楽を創っていこうという気概に溢れていたジュリー。退院すると、腕利きの若手ミュージシャンによる新バックバンド「オールウェイズ」を結成した。

そのオールウェイズを従えて歌った、これも糸井作詞の「恋のバッド・チューニング」(1980年4月発売)では、カラコンをつけ、カメレオンのように目の色を変えるという荒技を披露。またまた私はビックラこいてしまった。学校でも「アレってどうやってんだ?」と話題になり、「特殊な目薬をさしてるんじゃないか?」などと真剣に論議したのが懐かしい。のちに放送業界に入って「キーイング処理」という技術を知るのだが。

ファッション面では70年代からすでに先を行っていたけれど、以降ジュリーはより先鋭化。ど派手なメイクでグラム度が高まり、ニュー・ロマンティック路線を突き進んでいく。ヴィジュアル系にも少なからず影響を与えたと思う。またオールウェイズは、1年プレイしたあとメンバーが入れ替わり、1981年からエキゾティクス(EXOTICS)となった。この名前になったのは、シングルでいうと5月発売の「渚のラブレター」からだ。

吉田建(B)、柴山和彦(G)、安田尚哉(G)、西平彰(Key)、上原裕(D)という布陣で、リーダーの吉田はのちに泉谷しげるのバックバンド「LOSER」のベーシストとして活躍(「イカ天」の辛口審査員でもあった)。1980年12月発売の「おまえがパラダイス」で、ジュリーに髪をかきむしられていたギタリスト・柴山は、50周年ツアーの際たった1人でバックを務めるなど、現在もジュリーの片腕としてツアーに参加している。

ストレイ・キャッツ風のネオ・ロカビリー、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は自身の作曲

ジュリーは、ザ・タイガースのリードボーカルとしてデビューしてから一貫して、バックにバンドを従えて歌ってきた。ソロシンガーになってからも、ジュリーの中では「バンドのボーカリスト」という意識は変わっていないのだ。その証しが、1981年9月発売の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」である。ジャケットには、タイトルよりも大きな字で「JULIE & EXOTICS」とあり、メンバーも一緒に写っている。

ストレイ・キャッツ風のこの曲はジュリー自身の作曲で、ネオ・ロカビリーだ。ロックの原点に回帰する一方で、「おまえにチェックイン」(1982年5月)は大沢誉志幸が作曲。冒頭の「♪チュルルル、チュッチュチュル、イエー」のコーラスは、ジュリーと伊藤銀次に加え、大沢と佐野元春が参加している。

佐野は、1980年12月リリースのアルバム『G.S.I LOVE YOU』に「彼女はデリケート」を提供。のちにセルフカバーするが、当時佐野はデビューしたばかりだった。ジュリーはこうして、才能を感じた若手アーティストと積極的にタッグを組み、自身の音楽をアップデートしていくと同時に、彼らをメジャーシーンに引き上げていったことも忘れてはならない。

エキゾティクスのキーボード、西平が作曲した「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」(1982年9月)も、ジャケットの記載は「KENJI SAWADA & EXOTICS」とある。この曲も、イントロにスキャットの女王・伊集加代子のなんとも不思議なコーラスが入る、攻め攻めの曲だ。当時「最近ジュリーってヘンテコな曲ばっかり出すなあ」と思って聴いていたけれど、それでもオリコン最高6位である。マイナーなアーティストが趣味に走っても一部の音楽好きが評価するだけだが、第一線のトップスターが「いちばん攻めてる」のだから、その影響力たるや。そこがジュリーのカッコいいところだ。

紅白歌合戦で歌った「晴れのちBLUE BOY」

この1982年は「ザ・タイガース同窓会」(=瞳みのるを除く、期間限定の再結成)の活動も行い「十年ロマンス」「色つきの女でいてくれよ」のヒットを飛ばしたジュリー。旧交を温め、自分の原点を確認しつつ、1983年からはどんどん独自の道を突っ走っていく。この年の元日にリリースしたのが、「背中まで45分」。井上陽水の作品だ。ジュリーは前年暮れに、全曲陽水が作詞・作曲を手掛けたアルバム『MIS CAST』を発表。そこからのシングルカットだ。

この曲、シングル曲なのに、サビらしいサビがない。まったり始まり、まったり終わる。ジュリー自身が「歌ってていちばん気持ちいい」と言ったのがシングルA面に選ばれた理由だが、ヤマのないこの曲をシングルにするジュリーの感性がすごい。ただオリコン順位は、最高20位止まりに終わった。このあたりからチャート成績は振るわなくなっていくのだが、逆にいまの若い層から評価を得ている曲も多い。

1983年5月にリリースした「晴れのちBLUE BOY」は、再び大沢誉志幸を作曲に起用。アダム&ジ・アンツを意識し、ジャングルビートをいち早く採り入れた曲で、作詞は銀色夏生が担当した。「♪言いたいことは ヤシの実の中〜」というフレーズの意味がいまだにわからないが、これを暮れの紅白歌合戦で歌ったところに大きな意義がある。

ジュリーとエキゾティクスのメンバーは全員アーミールックで登場。ジュリーはスヌーピーをぶら下げていた。これは米軍のメタファーで、総合司会のタモリは「歌う日露戦争」と評した。なんでロシアやねん。

6月25日には75歳。今も現在も現役で活動を続け、ライブを行う

ジュリーは1984年9月、映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のイメージソング「AMAPOLA」を最後に、ザ・タイガース時代から在籍していた渡辺プロから独立。1985年、個人事務所・ココロを設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍する。自分のやりたいことをよりやりやすくするためで、新たなバンド「CO-CóLO」を結成。チト河内・原田裕臣のツインドラムという斬新な編成で、バックバンドではなく「ジュリーはバンドのボーカル」というポジションがより強調された。

元号が平成に変わった1989年には、5月に新バンド「Krís Kríngl」と新曲「Muda」を発表したかと思ったら、その4ヵ月後には、再び吉田建をリーダーとする「JAZZ MASTER」をバックに「ポラロイドGIRL」をリリース。サエキけんぞう作詞・奥居香作曲で、この人選もまたジュリーらしい。ジャケットの「FIGURE ME OUT」は日本語で言う「マジ?」みたいな慣用句だが、元の意味は「私を理解してくれ」だ。こういうさりげない遊びゴコロが私は大好きだ。

チャートからはご無沙汰になったが、ジュリーは70代になった現在も現役で活動を続け、ライブを行っている。新譜も間を置かず精力的にリリースしているし、そんなアーティストは世界的にみても極めて稀だ。

75歳の誕生日を迎える6月25日には、ザ・タイガースのオリジナルメンバー、岸部一徳・森本太郎・瞳みのるも参加して、“因縁の” さいたまスーパーアリーナで「リベンジ公演」を行う。43年前、パラシュートを背負って新たな地平へと飛び出した男は、不時着することなく、今も「飛びっぱなし」なのだ。

カタリベ: チャッピー加藤

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