徳川家康と宇都宮二荒山神社の深い関係 「関ヶ原」の勝利祈願、擬宝珠の寄進...

西坂の途中にある末社の東照宮

 NHK大河ドラマに取り上げられている徳川家康(とくがわいえやす)。栃木県内で家康といえば日光東照宮が有名ですが、宇都宮二荒山神社にもゆかりがあります。訪ねてみました。

 拝殿から社務所の前を通り西坂を下る途中、右手に立て札があった。「東照宮」と書かれてある。「御祭神 徳川家康公」の記載も。これまで何度も通っていたが気付かなかった。

■ここにも「東照宮」

 そこから25段ほどのやや急な石段を上ると、木々に囲まれ、社殿が立っていた。建物は大きくないが、扉には葵の紋があり堂々としている。確かに東照宮だ。思わずひれ伏してしまいそうになった…。

 なぜ、ここに東照宮が?

 金子宗人(かねこむねひと)権禰宜(ごんねぎ)(48)によると、東照宮は神社の西側の粉河(こかわ)寺にあったが、明治時代に廃寺になり、地元町民の願いで遷され末社になったという。

 郷土史書などには、粉河寺は広大な敷地を持つ大寺だったとある。この粉河寺に東照宮を祭ったのは、家康のひ孫に当たる宇都宮城主の奥平忠昌(おくだいらただまさ)で、家康の三十三回忌を期したとみる説もあった。

■複製品が社務所に

 「家康は宇都宮二荒山神社を崇敬していました」と金子さん。神社にはほかにも家康ゆかりのものがある。本殿の西側にある木塀に向かい、すきまからのぞくと、金色に輝く擬宝珠(ぎぼし)が見えた。「本殿勾欄(ほんでんこうらん)擬宝珠」(市指定文化財)だ。

 家康は関ケ原の戦いの際、宇都宮二荒山神社に戦勝祈願をした。家康本人が神社に足を運んだわけではないようだが、「武士の始まり」と称される本県ゆかりの平安時代の武将、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門(たいらのまさかど)討伐に向かう前にここで戦勝祈願をしたことにちなんだとされる。

 擬宝珠は、関ケ原の戦いの勝利の御礼として家康が寄進した。当時、宇都宮二荒山神社の社殿が焼失していたため、家康は孫の宇都宮城主、奥平家昌(おくだいらいえまさ)に命じて社殿の造営を行い、擬宝珠はその際に奉納されたという。

 取材で写真を撮影するため、金子さんに特別に案内してもらった。家康の擬宝珠は本殿の左右に計4個ある。近づくと、「征夷大将軍源家康」の文字が刻まれているのが見て取れた。

 擬宝珠は改まって公開してないので木塀越しか、ご祈祷(きとう)などで本殿に入った際に見ることができる。また複製品が社務所に展示されている。

 宇都宮二荒山神社に伝わる「二荒山神社年表紀事略(ねんぴょうきじりゃく)」や「当社神田寄附状(しんでんきふじょう) 徳川家康朱印状写(しゅいんじょううつし)」には、こうした関ケ原の戦いの戦勝祈願や本殿勾欄擬宝珠の奉納、1604年の神領の寄進などが記されている。いずれも非公開なので、公開されることがあれば見てみたい。

   ◇    ◇

 最後に今回登場した奥平家の2人と家康の関係を整理しておく。家康からたどると、家康と築山(つきやま)殿(瀬名(せな))の長女が亀姫(かめひめ)、亀姫と奥平信正(のぶまさ)の子が家昌、家昌の子が忠昌となる。大河ドラマでもおなじみの名前もあり親しみが湧く。ちなみに亀姫は「宇都宮釣り天井事件」でも知られている。

徳川家康とゆかりのある宇都宮二荒山神社。写真の拝殿奥の本殿には家康が寄進した「本殿勾欄擬宝珠」がある
徳川家康が寄進した「本殿勾欄擬宝珠」。家康の名が刻まれている

© 株式会社下野新聞社