『ホンダNSX(2000年)』強さも手に入れ、ついに勝ち取った初タイトル【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、2000年の全日本GT選手権を戦った『ホンダNSX』です。

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 1996年のチーム国光による苦闘を経て、1997年より無限×童夢プロジェクトが立ち上がり、全日本GT選手権(JGTC)のGT500クラスへと本格参戦するに至ったホンダのミッドシップスポーツカー『NSX』。

 そんな『NSX』は1997年シーズン途中の本格デビューから速さを見せたものの、なかなか勝利を手にできなかったが、1998年に富士スピードウェイで開催された第4戦で初優勝を飾ると、その後最終戦まで4連勝を記録する(オールスター戦を含めると5連勝)。

 翌1999年も7戦中3勝(この年もオールスター戦を制したのでそれを含めると8戦中4勝)と高い勝率をマークしたが、チャンピオン争いでは安定してポイントを得たライバルに敗れ、1998、1999年と2年連続で『ニッサン・スカイラインGT-R』にタイトル獲得を許してしまっていた。

 しかし2000年、いよいよ『NSX』に王座獲得のときが訪れることになる。

 2000年のJGTCは前年よりリヤウイングとディフューザーをより小さく規制し、リストリクター径を絞るという車両規定が採用された。これは空力の徹底追求によって速さを披露していた『NSX』にとっては大きな痛手となるはずだったが、ボディの開発を担当する童夢によって風洞を使い、空力の徹底的な見直しが図られた結果、2000年型の『NSX』は最終的に1999年型を上回る前後ダウンフォース量を発生させることに成功していた。

 またマシンの重量バランスも適正化が行われたほか、サスペンションについてもフロントがより多くの仕事をするような作りとなり、メカニカルグリップが4輪トータルで引き上げられた。これによってネックだったリヤの動きのナーバスさが、1999年型よりも解消される効果も生んでいた。

 加えて、フロントバンクのエキゾーストマニホールドのレイアウト変更やオイルパンの移設によってエンジンの搭載位置をより低めて、低重心化が行われるなど、より“規制”する方向だった新規定にも対応しつつ、『NSX』は前年型より大きくポテンシャルを上げていたのだ。

 その成果もあり、第2戦富士でTAKATA童夢NSXがシーズン初優勝を記録すると、スポーツランドSUGOでの第3戦で2000年型導入初戦だったMobil 1 NSXが勝利を挙げた。さらに第4戦富士では前戦のMobil 1に続き、このラウンドから2000年型が与えられたARTA NSXが優勝すると、鈴鹿サーキットが舞台の最終戦でMobil 1がシーズン2勝目をマークし、この年『NSX』は7戦中4勝という強さを発揮したのだった。

 しかし、この年勝利を記録した『NSX』たちは、どの車両もシーズンを通しての安定感に欠け、チャンピオンを獲得するには至らなかった。

 そんななか未勝利だったものの、7戦中4度の2位表彰台を含む全戦でポイント獲得を果たしたCastrol 無限 NSXがNSX勢に初のタイトルをもたらしたのだった(4度目となる最終戦での2位はCastrolよりも上位でフィニッシュした2台のNSXが再車検で失格となり、繰り上がりで手にしたもの)。

 こうして2000年に初めてのGT500クラスチャンピオンを獲得した『NSX』だったが、この後再び長きに渡る苦闘が始まることになる。

2000年の全日本GT選手権第2戦富士を制したTAKATA 童夢 NSX。脇阪寿一と金石勝智のコンビがドライブした。
2000年の全日本GT選手権第3戦SUGOを制したMobil 1 NSX。伊藤大輔、ドミニク・シュワガーがドライブした。
2000年の全日本GT選手権第4戦富士を制したARTA NSX。鈴木亜久里と土屋圭市がステアリングを握った。
2000年の全日本GT選手権第7戦鈴鹿を飯田章と服部尚貴のコンビで戦ったRAYBRIG NSX。

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