連合赤軍事件の過ちはどこに? 運動の内部から反省・分析  重信房子さんの新著『はたちの時代』

By 江刺昭子

 

重信房子さん。6月3日の支援者の会で

 日本赤軍の元幹部・重信房子さんが満期出所して1年になる6月3日、支援者の会に元気な姿を見せ「自由の身になって1年を振り返って」と題して近況報告した。

 服役中を含めると10カ所目になるがんの手術を受け、リハビリを兼ねて交流会などに参加しながら市民活動を再開。かつての同志たちとの再会、亡くなった人たちの墓参り、短歌作りや執筆、自らの裁判の膨大な資料の整理をして、多忙な日々を過ごしているそうだ。

 今年6月には、明治大在学中の学生運動から赤軍派時代までをつづった『はたちの時代 60年代と私』(太田出版)を世に問うた。

 わたしは昨年、重信さんの親友だった遠山美枝子の評伝『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』を出版した。『はたちの時代』はそれと重なる部分も多いが、重信さん自身の視点で闘争を捉え返している。運動の内部にいた人の実感に基づく分析は説得力もあり、証言としても生々しい。

 若者の政治離れの大きな要因となったともいわれる連合赤軍事件。そこに至る過程のどこに岐路があり、どのような過ちがあったのか。『はたちの時代』を読み進める。(以下敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 重信房子が高校を卒業してキッコーマンに勤めながら、先生になる夢を抱いて明治大学文学部2部(夜間部)に入学したのは1965年春。

 入学金の払い込みに大学に行ったら、校舎の前で座り込みをしている学生たちがいた。入学金と一緒に徴収される「維持費」は任意だ(払わなくてもよい)とアピールした学生が退学処分になった。その学生の復学を求めているのだという。

 「他人のために尽くした人が処分されるなんて、不正義ではないか」と共感し、誘われてそこに座り込んだ。

重信房子さん。キッコーマン時代

 本書には「正義」「不正義」という言葉が頻出する。60年安保闘争後、いったん沈静化していた学生運動が息を吹き返し、ベトナム戦争に反対する「べ平連」や反公害などの市民運動が活発になっていた。多くの人が「正義」は実現し得るという実感を持った時代。重信も「正義」の実現に使命感を感じて、こののちの人生を歩むことになる。 

 入学の翌年、慶応大や早稲田大に続いて明大でも学費値上げ反対闘争が始まる。学生自治会と理事者側が対立し、学生が学校をバリケード封鎖したのちの67年2月に収束した。このバリケードの中で重信は、親友となる遠山に出会う。

 志願してこの闘争に献身した重信にとって「人生の大きな節目だった」。間もなくキッコーマンを辞め、アルバイトをしながら学生生活を送るようになる。勉学も、サークルでの創作も、自治会活動も「すべてが楽しく、充実感に溢れた」日々を過ごしたというから、一般学生よりも満ち足りた毎日だったのかもしれない。

 この頃からどこの大学でも、学生自治会の主導権争いが激しくなる。日本共産党系と新左翼系、さらに新左翼の中でも激しい党派の争いがあった。明大2部の自治会は、新左翼系のブント(共産主義者同盟)の拠点になった。

 ブントは58年に結成され、60年安保闘争では主流派として運動を主導した党派である。重信や遠山は、誘われてその青年組織である社会主義学生同盟(社学同)に加盟し、仲間とともに砂川基地反対闘争や三里塚闘争などに積極的に参加していく。

 中でも67年の10・8羽田闘争は、当時の佐藤栄作首相のベトナム訪問を阻止するためのデモで、初めてヘルメットや角材が登場した。機動隊に制圧されて京大生の山崎博昭が死に、多くのけが人が出た。

 救護看護班の重信は、学生のけが人を通りかかった道路公団の車に頼んで乗せ、個人病院に運ぶなど、機転を利かせている。大病院だと警察に通報されることを恐れたと、本書で明かしている。

 判断力と行動力が指導部に評価されたのだろう。次第に闘争の重要な局面を担うようになっていく。重信自身も「オルグや政局に頭を使うレベルで、理論的なことは私は苦手でした」としながらも、独自の立ち位置を占める。オルグとは英語のオーガナイズ(組織化)のことで、組織拡大のための勧誘などを意味する。

 69年7月6日、ブント内で暴力事件が起きた。塩見孝也ら関西を中心とするグループ(後の赤軍派)が過激な武装闘争を主張してブント中央から批判されたことから、ブント議長の仏(さらぎ)徳二を襲って重症を負わせ、その報復を受けて同志社大生の活動家が死んだ。内ゲバによる初めての死者だった。

 これを機にブントから分かれて赤軍派が旗揚げし、重信も参加する。本書では「今から振り返って歴史を辿れば」と断った上で、赤軍派の過誤のおおもとは、その暴力性にあったという見方を示す。

 「七月六日の行動によって初めから道を誤ったために以降の失敗を刻印された」「やり方が違っても、共同する条件と方法はあったと思いますが、当時の未熟さでは、分裂は必然だった」「党内に自分たちの要求を通すために暴力をふるうというやり方は(略)、赤軍派がブントに持ち込んだ誤りであったこと、後のブントの分解の原因になったこと、また『連合赤軍事件』にも影響を与えたことは事実です」

 それでも重信が赤軍派と行動を共にしたのは、人脈的つながりがあったのに加え、塩見が世界革命のための武装蜂起を呼びかけ、国際根拠地を作ろうと提唱したことに共感したからだ。警察の尾行がつくなかで会場やアジトの確保、会議の準備、カンパ活動やオルグを中心になって担う。

遠山美枝子さん(左)と重信房子さん。1967年ごろとみられる

 仲間の多くも追随して赤軍派に参加し、後に困難な道を歩むことになった人もいる。「私の赤軍派への誤った道が、もちろん主体的に選択したことはまちがいないのですが、遠山さんをはじめ仲間をも過(あやま)たせてしまったと思うことがあります」と後悔の念も書き留めている。

 69年11月、赤軍派は首相官邸襲撃を計画し、山梨県大菩薩峠の山小屋で軍事訓練をしていて53人が一斉逮捕された。翌70年3月には、田宮高麿ら9人が日航機をハイジャックして北朝鮮に渡った。その後は弾圧が強まり、塩見をはじめ幹部らが次つぎと逮捕され、あるいは運動に見切りをつけて離脱する者が続出した。

 それでも「無理な現実の武装闘争路線をいったん下ろすという決断」ができなかった。それは「赤軍派の結集軸自体が『武装闘争をやる事』だったから」としている。

 結成当初の幹部がいなくなり、新たな指導者になった森恒夫が資金調達のために銀行強盗などを指令するようになると、重信は森と対立する。そこで国際部担当として中東問題を学習する中でパレスチナ問題の解決こそ革命の道と見定め、新たな地平を求めてアラブに脱出した。

 残された森指導部はより先鋭化し、政治路線の異なる革命左派(京浜安保共闘)と合体して連合赤軍を組織し、山岳訓練中の山小屋で同志12人をリンチ死に追いやった。重信は親友遠山の死を遠くベイルートの地で聞く。

 革命を目指す党派の運動と、大学解体を叫ぶ全共闘運動が交錯したこの時代には、何万人もの若者が社会に向かってもの申した。同時に多くの活動家が内ゲバで命を落とし、あるいは心身に深い傷を負った。しかし、当事者による記録は意外に少ない。半世紀前を反芻しながら、できるだけ正確に伝えようとしている本書は貴重だ。

 関わった人々の氏名をあえて記さなかったり、イニシャルにしているのは、記録としては残念だが、関係者にとって「あの時代」はまだ終わっていないからだろう。

 純粋な正義感から出発した若者たちの運動がなぜ道を誤ったのか。重信は「その後の私の経験と教訓から言えば、革命党の統一の要諦は『違いを受け入れる』ことであり(略)統一戦線や共同の要諦は『違いをリスペクトする』ことにあります」と記す。

 今、政治の世界で政権に反対する側が、小さな違いを言い立てて分立し、力を失っている。そうした状況をも射貫くような言葉だ。本書から学ぶ点は多い。

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