<書評>『〈怒り〉の文学化』 〈一九九五年九月〉キーワード

 イヤー、すさまじい研究書を読んだ。私は、本書で近現代日本文学と「沖縄」文学の最前線の研究、議論のレベルを学び理解することができた。

 栗山は、この大冊を「第一部 〈一九九五年九月四日〉へ至る道」、「第二部 「希望」が提起したもの」、「第三部 他者の声で変容する聞き手」の三部内の10章と、「序章」、「終章」に分けて論述している。

 そして、現代「沖縄」文学の代表と言える又吉栄喜の「ギンネム屋敷」論と「ジョージが射殺した猪」論。また、目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」論、「希望」論、「虹の鳥」論、「水滴」論、「群蝶の木」論、「眼の奥の森」論。さらに、崎山多美「月や、あらん」論が徹底して議論されている。

 これらの学術論文は、2020年に立命館大学大学院へ提出した「博士論文」を基にしているという。その上に、四つの章の「書き下ろし」から成っている。それだけに、先行論文を詳細に検討したり援用して、多角、多層的な作品分析・読解を展開している。何しろ、各章とも30から50余項目以上の「注記」があり、それらを比較検討するだけでも蒙(もう)を啓(ひら)かされた。

 本書は、〈一九九五年九月〉をキーワードに沖縄内の〈怒り〉の発露や戦時性暴力の記憶の継承について、一貫して論究している。その時、著者が依拠している文学、思想、分析理論では、特に「ジェンダー的視点」、「クィア・リーディング」、「アフェクト理論」等が新鮮で勉強になった。そして、栗山の「沖縄」文学研究に新城郁夫や村上陽子の先行研究が、いかに大きな影響を与えているかも分かった。

 望むらくは、個々の小説の分析・読解を議論する前に、その作品の全体が現代日本文学や「沖縄」文学史の上で、どのように評価、位置づけられるかを提示してほしかった。また、個々の議論の詳細に対しては私の異論もあった。

 とまれ、今後の「沖縄」文学の研究や小説作品の創作・表出は、本書のレベルを越えて進んでほしいと願っている。

 (高良勉・詩人/批評家、沖大客員教授)
 くりやま・ゆうすけ 1990年大阪府生まれ、立命館大初任研究員。論文のほか、著書に「旅する日本語―方法としての外地巡礼」がある。

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