会社の同僚だったり家族や友達だったり、果ては恋人にだって「嫌われたくない」一心で合わせてしまう、という人は多いもの。
無理をしてでも相手の在り方に寄り添ってしまうのは、「そうしないと嫌悪を向けられる」という恐怖が強いからです。
一方で、自分のほうは「嫌いたい人」がいることもあって、一貫しない心の状態にまず自身が疲れてしまいます。
「誰からも嫌われずに生きる」のは難しいのが現実、人の間でストレスを減らしながら過ごすにはどうすればいいのか、お伝えします。
嫌われるのは当たり前? 自分の価値を見誤らないための考え方とは
「人には好かれるのが正解」の思い込み
筆者も昔はそうでしたが、誰かに嫌われるのが怖くてたまりませんでした。
「嫌われる」のは自分がダメな人間である証拠、と思い詰めていて、極端にいえば「誰にでも好かれるのが正解」と信じていたのですね。
でも現実でそんな思いが叶うはずはありません。なぜならば筆者自身にどうしても嫌いな人がいる、それは変えられないのだから「自分が誰かにとって嫌いな人になる可能性」は消えないからです。
そう気づいたときに、「嫌われるのは果たして悪いことなのか」と改めて考えました。
人はさまざまな思いや価値観を持って生きており、自分もそのなかのひとりであって合わない人がいるのは当たり前、どんなに努力しても好きになれないのは「お互いさま」です。
人は対等だからこそ、「合わない人がいるのが普通」であって誰かに嫌われることを過剰に恐れる必要はないのだ、と思いました。
「どんな人にも好かれるのが正解」ではなく、「合わない人がいるのは当たり前なのだから、そういう人たちとどう関わっていくか」を考えるのが、健全な心の在り方だと感じます。
無理をしてまで合わない人に寄り添っていくのではなく、いかにストレスを減らした状態を維持できるか、が「お互いにとって」少しでも居心地のいい関係になるのではないでしょうか。
人からの関心が気になる理由
たとえば、笑顔で挨拶したけれどあからさまに無視されたり、LINEでメッセージを送ってもいつまでも既読スルーで置かれたり、他人からネガティブな対応をされる自分を見ると心が怯み、悲しくなります。
こちらが相手に悪い感情を持っていないときほど落ち込みますが、そこで考えたいのは「自分が知らない相手の事情」です。
相手がこちらの状態をすべて把握していないのと等しく、自分も相手の状況について知らないことのほうが多いはず。
無視をするのは何か理由があるのか、もしかしたら自分とは無関係の事情があってそうなっているのかもしれない、という客観視は、自分を追い詰めないためにも大切な考え方です。
人から向けられる関心が気になるのは当然で、誰だって他人とは「普通に」関わっていたい、ネガティブな状態は避けたいと思うのが自然。
一方的にないがしろにされるような場面で受ける衝撃は、「相手にとって価値の低い自分」を見るからで、その悲しみや怒りに振り回されます。
いわゆる自己肯定感の低い人ほど、他人から向けられる関心に敏感でささいなすれ違いでも過剰に反応し、「自分が何かしたのでは」と落ち込みます。
「相手を怒らせるようなことをした自分」を勝手に設定し、「だから自分はダメなのだ」と相手の事情を知ろうとしないまま決めつけてしまうと、本当のことはわからず自信だけを失っていきます。
相手と話し合う勇気が出せないときでも、自分を追い詰めるのではなく「そういう状況があった」とだけ受け入れておく、ひとりで勝手に良し悪しを決めない姿勢は、いざ相手と向き合ったときの心の余裕を生みます。
「自分と等しく相手にも事情がある」と思えれば、自分の価値を過剰に低く見積もることはしなくなるはずです。
嫌われるのは「仕方ない」
自分なりに一生懸命関わってみたけれど、関係がうまくいかずに「この人、嫌だな」と感じることはありますよね。
相手の振る舞いをこちらが決めることはできず、合わない人にはどんな誠意を向けても通じない、なんて場面は生きていればたくさん経験します。
相手がこちらに悪意を持っていない場合でも、こちらは在り方を受け入れられずに嫌ってしまうのは仕方のないことです。
等しく、自分も誰かにとっては「どんなに努力しても合わない人」になる可能性はあり、嫌われるのは避けられません。
別に悪い感情を向けてはいないのになぜか相手からは嫌悪感のある対応をされると、ショックだしこちらも「嫌いだな」と感じてしまいますが、その人との仲を変化させることに意識を向けても、こちらを受け入れる気がない相手を変えることはできません。
他人からの関心に敏感な人は、相手にとって自分の価値や評価が低いのを見るとそれを「間違っている」「誤解されている」と受け取り何とかしようとしますが、動いたせいでかえって相手から遠ざけられるのもよくある話。
「仕方ない」と割り切れたら、これ以上不要な関心を向けるのをやめられます。
自分だったら、嫌いだなと思う人にまた積極的に関わってこられたら、対応に困るしさらに悪い感情が増していきますよね。
関係がうまくいかない相手に「何とかしなければ」と思うのは、自分の都合です。
相手が持つ自分への価値や評価を無理に変えようとするのではなく、このときも「置いておく」、嫌われても仕方ないしそれはお互いさま、と距離を取って状況を見る姿勢が、それ以上溝を深くしないやり方ではないでしょうか。
「嫌われる=価値が低い自分」ではない
自分が手にする人間関係に誠実でありたい、人とは真摯に向き合いたいと思えば、「嫌われる自分」「うまくいかない自分」は間違いであり人としての価値が低い、と受け取ることもあります。
自分のやり方がまずくて嫌われる、というのも確かにありますが、「相手の在り方をこちらは決められない」のが現実である以上は、どうがんばっても理想通りの関係を築けない人がいるのもまた当たり前です。
自分も等しく相手の理想通りに存在はできず、それはどうしようもないことで、互いの「価値」の問題ではありません。
性格やコミュニケーションでの相性は確実にあり、「合わない人」がいるだけのこと。
嫌われたらから価値の低い自分なのだ、と受け止めるのではなく、「そういう人もいる」と留めておくのが、自尊心を損なわないためには大切です。
見るべきなのは人と誠実に関わろうとする自分、その結果うまくいかなかったときは自分のやり方に問題はなかったかをまず考えることが重要です。受け入れなかった相手にも等しく事情があると思えば、仲をこじらせていくより「いったん置いて」距離を取るのがお互いのため。
相手と期待通りの関係を築けなかったことで「ダメな自分」とするのではなく、「自分なりにがんばった」という実感が、人と関わろうとする姿勢を正しく育てます。
「心の自立」は自分のため
居心地のいい関係とは、自分も相手も同じようにリラックスできる、それぞれが素直に自分の意思を口にできる風通しのいい状態だと筆者は考えます。
そうなるためにはお互いの信頼が必要であって、信頼を育てる過程ではすれ違ったり衝突したり、もあるのが普通だとも思います。
ネガティブな状況を一緒に乗り越えるためには、ふたりの心が自立していることが欠かせません。
心の自立は相手の状態によって自分の気持ちを決めるような在り方ではなく、「こうありたい」を素直に出せる勇気、それは自分を信じる力のことです。
相手の状態に左右されずに「こうありたい」を伝える姿が境界線になり、それを見た相手は「自分も」となるのが愛情。
向き合うためには相手を離して見る必要があり、その距離があるから風が通り、心を開いて気持ちのやり取りができます。
「嫌われたくない」に縛られるとこの適切な距離を作ることができず、窮屈な状態で相手を見るため、相手もまたこちらのことを正しく知る機会を持てません。
嫌われるのを恐れて相手の在り方に従うのではなく、素直に本音を伝える姿勢がまず自分にとって居心地のよさを生み、それを受け取った相手もまた、素直に「こうありたい」を伝えてくれるのを筆者は経験しています。
心の自立は何より自分のためであり、無理をしてまで相手に寄り添うことが決して正解ではないのだ、ということをもう一度考えてみたいですね。
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誰だって他人から向けられる関心は気になって、自分の思う通りに受け止めてもらえないのを見ればショックを受けますよね。
そのときに考えたいのは自分のやり方であって、相手の受け止め方を操作することはできません。
相手とうまくいかなくても自信をなくさないコツは、自分なりに誠意を持って相手と接すること。
その姿勢があれば、たとえ嫌われたとしてもいい意味で「仕方ない」と距離を取ることができます。
(mimot.(ミモット)/ 弘田 香)