『マツダRX-7(FD3S型/2000~2003年)』苦しみながらも高みを目指したロータリーピュアスポーツ【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、2000~2003年の全日本GT選手権のGT300クラスを戦った『マツダRX-7』です。

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 1995年からロータリーチューンの雄、雨宮勇美が率いるRE雨宮が投入し、全日本GT選手権のGT300クラス(当時はGT2クラス)を戦い続けたFD3S型の『マツダRX-7』。以前この連載では、その最初の5年である1995~1999年までの戦いを紹介したが、今回は前回同様にRE雨宮のRX-7にスポットを当てて、2000年代に入ってからの3年間をお届けしよう。

 2000年、RE雨宮は1998年にマツダスピードとの共闘で生み出し、1999年に再びタッグを組んだRSファインとともに改良したRX-7をさらにモディファイ。シーケンシャルミッションの採用やエアロのアップデートを行い、特別戦として開催されたマレーシアのセパンサーキットラウンドで1996年以来久々の優勝を飾った。

 この年は二度のリタイヤ以外は、セパンでの勝利も含めてすべて5位以内でのフィニッシュを果たし、ランキング5位に入る活躍を見せたが、2001年にはさらなる飛躍を求めて、おおよそ3シーズンを戦ったシャシーに変えて、スポーツランドSUGOで開催された第3戦でニューマシンを投入した。

 このニューマシンはノーマルのボディをベースとしていたものの、エアロのモディファイやジオメトリーの変更、オイルクーラーやラジエターなど冷却系の改良などが行われ、デビュー戦でいきなり勝利を手にする。その後も第4戦の富士スピードウェイ戦、ツインリンクもてぎでの第5戦とポイントフィニッシュを重ね、最終戦までタイトルを争った。

 しかし、MINEサーキットを舞台とした最終戦で直接チャンピオンを競うユニシアジェックスシルビアのスピンに巻き込まれるかたちで後退。結果として2戦連続のノーポイントに終わり、ランキング2位でシーズンを終えた。

 翌2002年。この年は第4戦のマレーシアのセパンサーキット戦では、独走優勝を果たすも勝利は、この一度のみ。それどころかポイント獲得も開幕戦のTIサーキット英田戦の6位と鈴鹿サーキットでの最終戦における3位表彰台だけに留まり、前年とは一転シリーズ10位と大きく低迷してしまった。

 続く2003年も苦戦は続く。この年は優勝がなく第3戦のスポーツランドSUGO戦での3位表彰台登壇が最上位で、これを含めたポイント獲得レースはわずか三度となってしまう。

 シャシーも3年目となり老朽化も進んでいたが、この頃、GT500クラスで戦うスープラのパーツをふんだんに使ったセリカや、まるでスポーツプロトタイプカーのようなヴィーマック、ガライヤといった新世代のGT300マシンたちが登場。ライバルの大幅な戦闘力アップを前に現状のRX-7では苦戦も必至、という状況に陥っていた。

 そしてRE雨宮は2004年に向けて戦闘力アップを図るべく、RX-7にパイプフレーム化を含めた大規模なメスを入れるのだった。

2002年の全日本GT選手権第4戦セパンを松本晴彦、谷口信輝のドライブで制した雨宮マツモトキヨシアスパラRX7。谷口にとってはこれがGT初優勝だった。
2003年の全日本GT選手権第7戦オートポリスを戦った雨宮マツモトキヨシアスパラRX7。谷口信輝と大井貴之がドライブした。
2000年の全日本GT選手権第5戦TIを戦ったRE雨宮マツモトキヨシRX7。山野哲也と松本晴彦がステアリングを握った。

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