「私どもの不始末を…」キングメーカー・田中角栄元首相は深々と頭を下げた 行政改革が2010年以降、下火になった事情とは

羽田空港で出迎えの人たちに手を振る田中角栄氏=1972年9月

 1982年の夏、東京都内の料亭にあるメンバーが招かれた。下座に控えるのは田中角栄元首相。深々と頭を下げると、こう言った。「私どもの不始末をいろいろ整理していただき、ご苦労をかけ本当に申し訳ない」
 首相退任後もキングメーカーとして政界に君臨する男とは思えぬ神妙な態度と言葉に、上座の面々は驚いた。
 この時、政界では行政改革の議論が進み、大きな政治テーマとなっていた。土光敏夫氏率いる第2次臨時行政調査会(臨調)が3公社(国鉄、日本電電公社、日本専売公社)の民営化に向けた議論を進め、翌1983年3月には最終答申がまとまった。料亭に集められたのは土光氏と、戦後の政財界で隠然たる影響力を発揮し、臨調メンバーでもある元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏。行革に田中氏が強い思いを抱いていたことがうかがえる。
 行政改革は1980~2010年代までかんかんがくがくの議論が交わされ、第2次臨調を含め過去に4回、大きなうねりを迎えた。しかし、ここ10年近くは政治のテーマに上ることがほとんどなく、議論は下火だ。
 議論や行革が進まない事情はなぜか。日本の統治機構は既に完成の域に達したと言えるのだろうか。それぞれの時代で行革を主導した3人の元官僚や専門家の証言を聞くと、「リーダーシップ」と「国民目線」がキーワードと言えそうだ。(共同通信=高城淳)

 ▽行政改革の大きなうねりは過去4回
 まず、過去4回の行革を振り返る。
 最初は1985年と、1987年の3公社(国鉄、日本電電公社、日本専売公社)民営化だ。第2次臨調が主導し、JRやNTT、日本たばこ産業(JT)にそれぞれ衣替えさせた。
 次に橋本内閣が打ち出し、森内閣の2001年に実現した中央省庁再編。1府22省庁から1府12省庁に整理した。
 続いて2007年の郵政民営化だ。小泉純一郎元首相の「聖域なき構造改革」は政策スローガンになった。
 最後は「政治主導」の実現を目的とした安倍内閣による2014年の内閣人事局の発足だ。
 こうして見ると、それぞれの背景に高度経済成長の終焉や財政赤字の増大、経済構造の転換や国際化といった時代の変化があることが分かる。

田中角栄元首相(左)と土光敏夫氏(右)=1981(昭和56)年7月13日、東京・平河町

 ▽キングメーカーの思いが影響及ぼす
 行政改革は、国の機構を根本から変える大がかりな事業だ。実施に向け、とりわけ厚い壁となるのは、長年の歴史で培われた政財官の関係者の既得権。過去4回の行革のうち、まず第2次臨調は、どう突破したのか。
 旧総務庁官僚で臨調事務局に出向経験のある元内閣審議官、江沢岸生氏=現長野県飯山市長=は、意外にも首相退任後もなおキングメーカーとして政界に君臨した田中氏の強い思いが影響したと明かす。
 「田中元首相は既に行政の肥大化を懸念していた。『民間でできるものは民間に』というのが持論で、多額の公的資金が投入される一方でコストや競争に対する意識や、効率性の低さが指摘されていた特殊法人などはどうにかしなければという意識が強かった」。特殊法人は当時、行き詰まりを見せ始めていたという。

元内閣審議官の江沢岸生長野県飯山市長

 「低成長時代に入り、高度成長期に積極活用し社会資本整備を進めたことに、ある種の責任を感じていたのではないか」
 経団連会長だった土光敏夫氏に白羽の矢を立てたのは、1981年の第2次臨調設置を主導した当時の中曽根康弘行政管理庁長官と鈴木善幸首相だ。1982年に退陣表明した鈴木氏の後継首相に中曽根氏を押し上げたのはほかならぬ田中氏で、政権発足後も陰に陽に中曽根氏を支え続けた。

NTTが株式会社として発足した際の社章の除幕式=1985年4月1日、東京・内幸町のNTT本社

 ▽ぶれない意思が一定の成果につながる
 徹底してやり抜く実行力から「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれていた田中氏。臨調は「増税なき財政再建」のスローガンの下、3公社民営化だけでなく財政圧迫の要因とされた「3K赤字」(米、国鉄、健康保険)の解消にも踏み込んだ。不要な特殊法人や事業廃止にも踏み込んで一定の成果につなげた。
 江沢氏はその“勝因”をこう分析する。「政策立案に非常に強い思いを持っていた時の首相と、それを支える政治家ががっちりかみ合ったために抵抗勢力をはねのけて改革が進んだ。本当のトップの明確な意思がぶれなかったからだ」
 トップのぶれない姿勢で言えば、まだ人々の記憶に新しい郵政改革も同様だ。
 小泉純一郎首相(当時)は、同じ自民党内の反対派を「抵抗勢力」に仕立て上げ、世論を味方に対立をあおって改革を進めた。その手法は「小泉劇場」と注目され、圧倒的な支持を集めた。「改革の本丸」と位置付けた郵政改革を突破口に「官から民へ」の流れが加速した。ただ、民営化ではさまざまなひずみも露呈した。いまもその禍根は続いている。

JP日本郵政グループの発足式でテープカットする小泉純一郎元首相ら=2007年10月1日、東京・霞が関

 ▽「行革イコール効率化」ではない
 道路公団改革を手がけ、特殊法人や独立行政法人改革を巡る政府審議会委員を数多く務めた公認会計士の樫谷隆夫氏は、郵政民営化の議論当時にも共通する社会の「空気」を感じた。
 「道路公団も郵政も民営化すればなんとかなる、民営化は全て善だという雰囲気があった。郵政はひずみが生じ、独立行政法人改革も正しいと思って進めたつもりだったが、数を減らすことを意識するあまり、ほとんど関係のないような組織を統合したようなものもある。何か違っていた」

公認会計士の樫谷隆夫氏

 矢継ぎ早に進んだ民営化の議論は正しかったのか。「行革イコール効率化、スリム化だと思われているためかもしれない。だが、それは本来の行政改革ではない。目的は組織のミッションを達成すること。そのためのガバナンス・マネジメントが十分に機能する組織形態とすることが本質だ」と言い切る。
 樫谷氏は、衣料品店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングなどさまざまな企業の支援や再生を手がけた経験があるだけに、その言葉は重い。
 行革に対する評価がほとんどなされていない点も問題視する。「『行政は正しいことしかしないから、チェックする必要はない』という発想があるのかもしれない。だがそれでは次の改革に進まない。利益追求が目的の企業とは違い、行政改革は政策の達成、つまり国民へのサービス向上を最終目的にするべきだ」

新省庁体制スタートで内閣府の看板を除幕する当時の森喜朗首相(右から3人目)ら=2001年1月6日、内閣府

 ▽官僚のキャリア制度改革で忖度政治横行
 政界は、幹部となるキャリアを頂点とした公務員制度も行政改革のターゲットにした。学生の国家公務員離れが懸念され、ブラックな労働環境の改善へ検討は進んだ一方で、行革によって「政」と「官」の関係性に疑問符が付けられるようにもなった。
 安倍内閣が設立した内閣人事局は、政治主導を強化するのが目的で、中央省庁の幹部人事を一元管理するのが仕事だ。それまでは事実上各省庁が決めた幹部人事を内閣が黙認する構図だったが、これを首相や官房長官自身が主導して決定する形に変えたのだ。
 省庁の幹部が政権の方針を忠実に実行するという意味では政治主導は強化されたが、その半面、政治家の顔色ばかりをうかがう「忖度政治」が横行した。土地取引を巡る決算文書改ざんなど、森友学園問題はその最たるケースだ。

内閣人事局の発足式で看板を掛ける当時の安倍晋三首相ら=2014年5月30日、東京・永田町

 ▽内閣人事局設置は行革ではなく政治改革
この時の改革の狙いはどこにあったのか。第1次安倍政権の内閣官房行革推進室で制度設計や法案化を手がけた渡辺泰之元内閣官房行政改革推進室参事官補佐はこう説明する。
 「日本の衰退が顕在化し、官僚主導から脱却して思い切った政治主導に切り替えないと深刻な事態に陥るとの危機意識が政権内の一部にあった。本質は行革というよりも政治改革だ」
 だが渡辺氏も弊害は認めている。「幹部公務員は全力で首相の意向を忖度するようになった。人事は理由を説明しなくてもいいので、政治家は良くも悪くも権限を乱用できる。霞が関は時にスキャンダルを暴露し政権を窮地に陥れる自爆テロを起こすことができるぐらいだが、確実に抑止効果が現れた」
 渡辺氏は変化する社会情勢に行政が対応できていないとも訴えている。「首相が全省庁の人事に口を出せるようになったが、権限を十分に行使していないのが問題だ。強力な人事権を得た代わりに、政策立案に義務を負ったことを首相は自覚するべきだ」

渡邊泰之元内閣官房行政改革推進室参事官補佐

 ▽日本政府の致命的欠陥は「やりっ放し」
 行政が社会や時代の要請に応えうる体制になっているかどうかは、不断のテーマだ。渡辺氏は問題視する。「制度を作ったことに満足してしまい、趣旨と異なる運用をされたり、事実上の骨抜きにされてしまったりした制度は数多くある。やりっ放しというのは日本の致命的な欠陥だ」
 現在は、田中角栄、小泉純一郎両氏のような行革に熱意を持った政治家は見当たらない。ただ特殊法人改革や省庁再編、公務員制度改革、郵政民営化といった過去の行革の結果を国民目線で「レビュー」し、事業が国民へのサービス向上につながっているかどうかを問い直すことで、新しい行革の形が見えてきそうだ。

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