広島・長崎投下の核、それはアフリカからやって来た コンゴの原爆ウラン鉱山…過去、そして今何が(前編)

コンゴ・リカシ中心部で、ロビトやマタディの方面へと延びる線路=4月(共同)

 1939年10月11日、米国大統領フランクリン・ルーズベルトはホワイトハウスの執務室に、気心の知れた大統領顧問アレクサンダー・ザックスを迎え入れた。軽いおしゃべりから始まった2人の会話はやがて深刻な話題へと移る。「必ずお読みください」。ザックスは去り際に2ページの信書を残した。「大量のウランによる核分裂反応が可能になってきたようだ」「極めて強力な新型爆弾の製造につながり得る」。最新科学の現状を伝える信書の末尾に記された署名は、アルバート・アインシュタイン。

アルバート・アインシュタイン

 文面は世界的な物理学者自らがしたためたものではなく、ハンガリーからの亡命学者レオ・シラードが起草し、アインシュタインが名義貸ししたものと伝わる。米国の原爆開発のスタートに大きな影響を及ぼした歴史文書として日本でも有名だ。一方で信書の中盤にアフリカの地名が登場することは、あまり気に留められることがなかっただろう。ウラン入手先の候補として米国やカナダ、旧チェコスロバキアを挙げた後にこう続く。「最も重要なウランの供給源は、ベルギー領コンゴにある」
 ベルギー領コンゴとは現在のアフリカ中央部コンゴ(旧ザイール)を指す。当時既にごく一部で、コンゴ南東部の「シンコロブエ鉱山」に良質なウラン鉱石が大量に存在することが知られていた。米国は後にこの鉱山のウラン確保に全力を投じるようになる。「広島と長崎に落とした原爆の製造に使ったウランの大半はアフリカ由来」は定説だ。
 歴史に「もしも」はない。しかし想像を禁じ得ない。もしコンゴのウランが今も人知れず地中に眠ったままだったら、78年前の原爆投下で何十万もの命が奪われることはなく、核を巡る人類の意識も全く違ったものになっていたのではないか。
 今の時代に続く世界の在り方を決定づけたシンコロブエ鉱山と原爆を巡る過去、そして鉱山周辺で生きる人々の現在の姿を2回にわたり伝える。(敬称略、共同通信ナイロビ支局 菊池太典)

【左】広島に投下された原爆のきのこ雲=1945年8月6日/【右】長崎に投下された原爆のきのこ雲=1945年8月9日

 ▽扉で閉ざされた鉱山への道
 4月中旬、私は大型トラックが行き交うほこりっぽい交差点で、主要道から横に延びる道を閉ざす青い金属の扉を、厳粛な思いで見つめていた。コンゴ南東部リカシ郊外。第2の都市ルブンバシから北西に110キロほど行った地点だった。

コンゴ・リカシ郊外で、シンコロブエ鉱山へと続く道に設置された線路跡=4月(共同)

 同行のコンゴ人ジャーナリストが解説してくれた。「この辺りは銅とコバルトが豊富なアフリカ有数の鉱山地帯です。今もあちこちで採掘が進み、スマートフォンや太陽光パネルといった機器の部品に欠かせない地下資源を世界に送り続けています」
 目の前の扉から南西に十数キロにわたり続く道をたどれば、閉鎖されて久しいウラン鉱山シンコロブエがある。だが扉は固く閉ざされ、あちら側には行けない。
 それでも私のいる場所が、1万2千キロ以上離れた極東の2都市をかつて焼き尽くした「閃光」の始まりの地であることを示す痕跡が、確かにあった。扉の下から半ば土に埋もれた線路跡がこちら側に延び、リカシ中心部の駅方面へと向かっている。「当時は鉄道で鉱物を運び出していたんでしょうね」。同行のジャーナリストの言葉に私もうなずいた。

コンゴ・リカシ近郊の鉱山で働く労働者=4月(共同)

 原爆用のウラン鉱物がコンゴから米国に渡ったのは1940~44年で、アフリカ大陸内の輸送はリカシを通る鉄道が起点となった。ルートは二つあり、一つは隣国アンゴラを横断し、大西洋に面した港町ロビトに向かう経路だ。
 もう一つの行程は複雑だ。ウランは鉄道でコンゴ国内を北西に向かい、カサイ川沿いの町で船に積み替えられる。船は川を下り現在の首都キンシャサに着く。そこでまた鉄道に移され、大西洋に抜ける海運の要衝マタディへ運ばれた。
 ロビトとマタディからはそれぞれ船で米国へ向かい、ニューヨーク州スタテン島で保管された後、原爆開発計画「マンハッタン計画」を進める各地の機関に送られた。
 例外はあるかもしれないが、輸送経路はこの説明でほぼ間違いない。なぜなら第2次大戦中の米国はシンコロブエ鉱山からのウラン鉱物輸送について、地図を含めた詳細な記録を残していたからだ。機密解除されたその米公文書の記述を基に、コンゴのウランを巡る当時の様子を再現したい。

 ▽残土の中に高純度ウラン
 「ウラン産地としてのコンゴの重要性はいくら強調しても足りない。米国は可能な全ての手段を尽くしてコントロールすべきだ」
 米陸軍工兵司令部の中佐ジョン・ルホフは1943年12月27日付のメモで、マンハッタン計画の責任者で少将のレスリー・グローブズに訴えた。
 ウランは主に、酸素と結びついた状態で地中に安定して存在する。シンコロブエ鉱山では、酸化ウランの鉱石が大量に確認されていた。
 もともとはコバルトや銅の採掘が目的の鉱山だったらしい。1920年代初頭の鉱物発見で開発が始まったものの、1938年ごろには役目を終えてうち捨てられた。米国がウランに着目した時期は地下水や雨水だろうか、「完全に水没していた」(米軍の地質学者)。だが周囲には資源採掘の副産物の残土が山積みされており、その中に驚くほど高純度な酸化ウランが含まれていた。
 1943年末には、米国は既に原爆開発に必要なウランのかなりの量を確保していたようだ。ナチス・ドイツと敵対するベルギーの鉱山会社が全面協力した。公文書には「1940年にコンゴからスタテン島に、酸化ウラン168万ポンド(約760トン)分の鉱物を運んだ」との記載がある。
 アフリカ大陸から搬出する港は、1943年初めごろを境にロビトからマタディに切り替わったことが読み取れる。ロビトが位置するアンゴラは当時、連合国と枢軸国の間で中立の立場を維持したポルトガルの植民地で、情報がナチス・ドイツに漏れることを米国が恐れたためだ。ある米陸軍将校はグローブズ宛てのメモで「ロビトで米国のウラン輸送についてのうわさは出ていない」と報告。機密漏えいに神経をとがらせていた様子がうかがえる。

ロビトでウラン輸送のうわさが出ていないことを報告する第2次大戦中の米陸軍将校のメモ(共同)

 ▽定説の根拠を探る
 果たして広島と長崎に落とされた原爆の製造に使われたウランのうち、どれくらいがコンゴ由来だったのだろうか。米公文書を読み解くと、ある程度の推測が可能だ。

コンゴのシンコロブエ鉱山に関する米公文書が綴じられた資料ファイル=2022年6月、米メリーランド州の国立公文書館(共同)

 マンハッタン計画の中核、ロスアラモス国立研究所勤めの陸軍中佐は1943年5月27日付のメモで、第2次大戦中の原爆開発に必要なウランの確保が「1944年7月1日に完了する」との見通しを示している。そして、コンゴのウラン確保に全力を挙げるようグローブズに進言したルホフの1944年2月5日付のメモに、酸化ウランの生産地ごとの供給実績と見通しが記録されている。完了月の1944年7月まで見通しに沿って確保が進んだとの仮定で計算してみよう。
 酸化ウランの供給源は(1)アフリカ(コンゴ)(2)カナダ(3)米国コロラド州(4)その他―の四つ。1944年7月までに米国が入手したとみられる量は計5391トンで、うちコンゴは3304トンと約61%を占める。カナダとコロラド州はそれぞれ約17%だ。研究や実験に費やされたものなどを差し引いても、人類に初めて降り注いだ核爆発のエネルギーの源は、やはり大半がコンゴ由来だったとみて間違いないだろう。
 米国は戦後、新たな脅威であるソ連への対抗でシンコロブエを再整備し、コンゴが独立する1960年まで、この鉱山のウラン確保に注力した。
 では米国が去った後、鉱山は過去の遺物として忘れ去られたのだろうか。現実は物語のようには終わらない。コンゴ南東部では当然、そこから現在に至るまで人々が生活を営んでいる。
 米国によるウラン採掘が終わってから63年後、シンコロブエ鉱山へ続く青い扉を眺めていたまさにその時、私の横を中国語の書かれた巨大な工業用車両が何台も通り過ぎていった。後半では現地の今を報告する。

コンゴ・リカシ郊外で、中国語の書かれたコンテナを運ぶ車両=4月(共同)

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