「セメント王」浅野総一郎物語⑦ ライバルは三菱の岩崎弥太郎

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・三菱グループ岩崎弥太郎が、渋沢栄一に三菱の“番頭”要請。

・岩崎は、独占的な利益を得る個人経営を主張。

・国家・社会に尽くす経営主眼の渋沢に浅野総一郎は影響された。

浅野総一郎はいつか郷土の偉人、銭屋五兵衛のように、船を持ち海運業を始めたいと思っていました。しかし、海運業界には、行く手を阻む「巨人」がいました。三菱グループの創業者、岩崎弥太郎です。

九十九商会で海運業を営んでいた弥太郎は明治6年、社名を「三菱商会」に切り替えました。そのころから怒涛のような躍進が始まります。明治7年の台湾出兵で軍事輸送を一手に引き受け、巨額の利益を得ました。

そして極めつけは、明治10年の西南戦争です。九州各地の不満士族も合流し、反乱軍は大規模になった。

三菱商会はこの時、定期航路をすべてストップし、政府側の軍人や兵器の輸送を引き受けました。政府は4150万円という巨額の資金を使った。そのうち、三菱商会は1500万円も儲けたと伝えられている。実に戦費の3分の1です。

戦費は三菱の言い値で、明治政府にとっては「西郷が前門の虎なら、三菱は後門の狼」とも言われた。三菱商会はそれほど圧倒的な力を持っていたのです。岩崎は、大久保利通大隈重信らの信頼を勝ち取り、「政商」として圧倒的な存在感を示していました。総一郎はかねがね、サクにこう漏らしていた。

「岩崎弥太郎の独占では、日本のためにはならない。海運業界でも競争が必要だ。独占企業が勝手に運賃を引き上げるのは、やはりおかしい。俺は子供のころから銭屋五兵衛のように、船を持ちたいと思っている。岩崎弥太郎に対抗したい」。

総一郎の“師匠”である渋沢栄一も、岩崎弥太郎の独占ぶりに懸念を抱いていた。渋沢と岩崎は当時の日本の経済界での二大巨頭だったが、互いに敬遠していました。

ところが、岩崎が明治一一年の八月にアプローチしてきたのです。それが有名な「隅田川の決闘」です。

じめじめした夏の日、岩崎が渋沢を隅田川の舟遊びに誘いました。屋形船を浮かべて話し合おうというのです。渋沢は岩崎のやり方を公然と批判していただけに、どうして招待されたのか。少し不可解だったが、「お互いに話し合ういいチャンスだ」と応じました。

待ち合わせの場所は隅田川沿いの料亭。岩崎は、黒塗りの二頭立ての馬車に乗って到着しました。すぐに宴会が始まりました。芸者を呼んで、どんちゃん騒ぎとなったのです。芸者たちは「御前様」「御前様」と、岩崎に甘えた声を出していました。

宴会が終わった後、渋沢は料亭下の船着き場から、岩崎に誘われて屋形船に乗った。船が川の真中辺りに来たところで、船頭たちは櫓をこぐのをやめた。船は川の流れに任され、静まり返る中、岩崎は渋沢の目をみつめました。

「渋沢さん、うちの三菱商会に入って、私を手伝ってください。二人で経済界の富を独占しましょう。企業というのは、能力のある社長が独占的に引っ張る。儲かれば、その儲けは社長のものであり、損をすれば、社長が責任を取るものだ」。渋沢に対し、三菱の“番頭”になるよう要請したのです。

渋沢はその誘いを断りました。2人は会社のあり方について激しく対立していたのです。岩崎はあくまで、「会社は社長が独裁すべきある」とし、個人経営を主張しました。独裁体制で、独占的な利益を得ようという主張でした。

一方の渋沢は、合本(ごうほん)組織、すなわち株式会社化を主張しました。「みんなで責任を分担し、利益を配分する」経営が必要だと論じたのです。富の独占ではなく、株式会社をつくって、利益を幅広く分配しようという考えです。

総一郎は渋沢の思想に深く影響を受けていました。独占を嫌い、国家のため、社会のために尽くす経営を主眼としていたのです。

渋沢と対立した岩崎は、総一郎にとっても「敵」と映りました。そのころ、時代は動く。絶対的な力を誇示していた弥太郎率いる三菱商会に対し逆風が吹き始めた。いったい何が起きたのでしょうか。

(つづく)

トップ写真:岩崎弥太郎 出典:国立国会図書館ウェブサイト

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