浅野総一郎物語⑧ 政変で「反三菱」の動きも

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・岩崎弥太郎率いる三菱商会に、突如逆風が吹き始めた。

・明治15年、渋沢栄一らにより反三菱の共同運輸株式会社が設立。

・浅野総一郎とサクは夫婦で、渋沢栄一の心をわしづかみにした。

三菱商会は岩崎弥太郎が率いて、絶大な力を持っていましたが、突如逆風が吹き始めました。理由は、後ろ盾となっていた2人の大物政治家が表舞台から去ったからです。その1人は大久保利通です。11年に暗殺されたのです。そしてもう1人が大隈重信です。14年に失脚しました。「明治14年の政変」です。

明治政府内では一気に権力基盤が動き、伊藤博文井上馨が実権を握りました。彼らは渋沢を支持しており、「岩崎VS渋沢」でも力関係が変わるチャンスとなったのです。

弥太郎がその風貌から「黒い海坊主」と称され、新聞紙上では

「海坊主退治」などの文字が躍ったのです。自由民権論者の中江兆民らは、反三菱の論調を張りました。また、明治15年、「岩崎の独占を許すまじ」という世論が高まり、業界内でも具体的な形となりました。7月に設立された共同運輸会社の設立です。

それは、渋沢栄一三井物産の益田孝らが全国の中小の海運業者らを集めて作った半官半民の会社です。政府も40%出資。共同運輸の設立発起人には、渋沢、益田のほか、大倉財閥の大倉喜八郎らが名を連ねました。

総一郎は石炭やセメントの商いで忙しい日々を送りながらも、“実働部隊”となりました。34歳。「反三菱」の牙城となる共同運輸で最も過激な存在でした。

三菱商会と共同運輸会社は激しい競争を繰り広げ、ダンピング合戦となりました。それは、2年間続きました。

しかし、西南戦争で儲けた三菱の財力は半端なものではなく、タダに近い料金設定を提示することもありました。政府がバックの共同運輸会社も、相当打撃を受けました。

岩崎弥太郎の「競争相手を叩き潰せ」という大号令の下、運賃は競争前の10分の1。政財官を巻き込んで中傷合戦となりました。

強烈な戦いの下、弥太郎は明治17年9月14日、倒れました。癌が見つかったのです。治療のために集められた医師はなんと11人。最高の医療を受けたものの、体は衰弱し、翌18年2月7日、弥太郎は死去しました。51歳です。死の3日前、弥太郎は息が絶えそうになっていたにもかかわらず突然、気力を見せて、「泣くな、静かにせよ」と言った後、こんな言葉を放ちました。遺言です。

「われも東洋の男子と生まれ、わが志すところ未だ10のうち、2、3しかなさず今日にいたる。もはや仕方なし。彌之助、川田(小一郎)、三菱を盛り返せ、われの志を継ぎわれの事業を落とすなかれ」

弟の彌之助が後を継いだが、こちらも強硬路線でした。「亡兄の宿志を継ぎ…あくまで不撓不屈」という主張し、共同運輸に挑みます。

泥沼化した値下げ競争。このままでは共倒れになる。そんな危機感から、政府は仲裁に入りました。合併で明治18年に日本郵船を設立したのです。比率は共同が6で、三菱が5。初代社長は共同側が付きました。一応形の上では、政府のメンツは保たれました。

しかし、2代目以降は、三菱出身者が社長となりました。共同の多くの株主が経営を不安視し、三菱に株を売却したのです。

総一郎はこの新会社への出資を求められたが、「岩崎とだけでは仕事をしたくない」と断った。

石炭、セメント、海運…常人では考えられないような目まぐるしい日々を送る総一郎。30代後半には、横浜でも有数の金持ちになっていました。

穏やかな5月のある日、総一郎は妻のサクに声を掛けました。

「今から箱根の温泉に行くぞ。荷物をまとめてくれ」。

お姉ちゃんたちは、家に残しても女中に懐いていたが、泰治郎だけは、甘えん坊で、サクから離れません。親子3人で温泉。総一郎はどうして突然言い出したのだろう。不思議に思ったが、すぐに疑問は氷解しました。

「箱根に渋沢さんが宿泊しているので、どうしても話したいことがあるのだ」。

やっぱり仕事だ。3人は人力車に乗り、新橋に向かいました。そこから東海道線に乗って、箱根湯本に着きました。駅から温泉まではまだ相当な距離があります。少しお金を出して籠を使っても良かったが、サクは「そんなお金もったいない。歩きましょう」と言いました。山道を歩くことにしたのです。

一方、箱根の宿で静養していた渋沢はたままた、山道を上がる夫婦の姿を見ました。

「浅野君、どうしたのですか」。総一郎夫婦と幼い泰治郎です。総一郎とサクは並んで山道を杖を突きながら歩いた。しかも、サクは泰治郎をおぶっていました。

渋沢は東京へ戻った後、周辺の人に語った。

「浅野総一郎は、これだけお金を持ち、世間で認められているのに、私生活は実に質素だ。私が見込んだが、間違いはなかった」。

浅野総一郎とサクは夫婦で、渋沢栄一の心をわしづかみにしたのです。これも、総一郎の力量と、私は思います。

(その⑨につづく。

トップ写真:浅野総一郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

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