疎開せず母の故郷へ避難 新城喬さん(1) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>

 北中城村島袋の新城喬さん(91)から体験記が届きました。新城さんは那覇市泉崎の出身です。10.10空襲の前に八重瀬町富盛(ともり)に避難します。米軍上陸後、糸満に逃れ、大渡海岸で米軍に捕らわれました。
 
 新城さんは1932年3月、那覇市上泉町(現在の泉崎)で生まれました。4人きょうだいの長男です。間借り暮らしでした。県庁で働いていた父の安宜さんは病気で早世し、母ヨシさんが機織りの工場で働きながら、子どもたちを育てました。

 新城さんは、現在のパレットくもじの場所にあった甲辰(こうしん)国民学校に通いました。

 サイパンの日本軍が米軍との戦いで敗れた44年7月、政府は緊急閣議を開き、沖縄や奄美の住民の島外疎開を決めました。学童疎開も進められます。沖縄が戦場となる可能性が高くなり、戦争の足手まといとなる子どもや老人、女性を退避させたのです。軍隊の食料確保という目的もありました。

 甲辰国民学校の5年生になった新城さんと家族は決断を迫られます。

 《1944年、米軍の沖縄上陸の前年、那覇の国民学校は疎開の命令でその決断を迫られていました。母は九州に疎開するか、あるいは母のふるさとである東風平村(現八重瀬町)富盛の田舎に行くかを考えた末、取りあえず富盛へ行くことになりました。

 沖縄では、戦争が始まったら足手まといになるうえ、口減らしもあって、その後次々と疎開船がひそかに那覇港から九州へと出港したようです。》

 ヨシさんの判断が、新城さん家族の命運を左右します。

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