日本での生活開始から1年、ウクライナ避難民家族の「たった一つの願い」

現在、リュボフィさん一家は堺市の市営住宅で生活している

【前編】「戦争で傷ついた日用品をアート作品に」ウクライナ避難民女性が創作に込める“願い”より続く

昨年2月のロシア軍の侵攻以来、ウクライナでは多くの民間人が犠牲になった。今年4月の国連人権高等弁務官事務所の発表によれば、その数は約8千500人にものぼる。同事務所は「氷山の一角で、実際の死者はさらに多い」とも。現在の日本には、戦禍を逃れてきた2千400人以上の避難者が暮らしている。

「去年の2月24日、私たち家族はキーウにいました。朝の4時ぐらい、爆撃の音で目が覚めたんです」

あの日のことを、こう振り返るのは、現在は大阪・堺で、夫や子どもたちと避難生活を送るアンサリー・リュボフィさん(48)。イラン出身のメフティさん(43)と結婚し、3人の子宝にも恵まれ、リュボフィさんの母とともにキーウ郊外で、幸せな家庭を築いていた。しかし去年2月、ロシアから飛んできたミサイルが、その幸せを打ち砕いた。

自宅のすぐ近くにミサイルが落ちたこともあったという。

「自宅から目と鼻の先にあったショッピングモール。よく買い物に行った場所です。そこにウクライナ軍の迎撃ミサイルが置かれている写真を、誰かがSNSにアップしてしまって。それでロシア軍に狙われたんです」

戦争は家族の思い出も、慣れ親しんだ日常も、容赦なく破壊した。集合住宅の地下から、夫が調理師として働いていた郊外のリゾート施設へ、家族は迫り来る爆撃をかいくぐるように移動した。スナック菓子で飢えをしのぎながら西へ、西へと移動。そして、スロバキアとの国境近くで、リュボフィさんたちは夜行列車に乗った。

「母と、すでに結婚している私の長女は、キーウに戻ることを選びました。だから、2人とは国境の駅で別れました。でも、映画のセリフのような言葉を交わす余裕はそのときはありませんでした。空爆の恐れがあるので、列車内では明かりをつけたり携帯電話の電源を入れることも禁じられて。窓から遠くに落ちるミサイルの火が見えて、とても恐ろしかった」

まず目指したのは、夫の親族がいるドイツ。総動員令下ではあったが、当時は、60歳以下の男性でも、子どもが3人以上いれば特例として移動を許されたという。

「ドイツに着くと、日本で長年暮らしている夫の友人と連絡が取れて。日本がウクライナの避難民を受け入れているという話を聞いたんです。ただ、その友人は『本当に受け入れてくれるかどうかはわからない』とも。私たちは半信半疑の気持ちで、日本大使館の門をたたいたんです」

幸いにも、ビザはすぐに下りた。情報をくれた日本在住の友人が、身元保証人にもなってくれた。こうして昨年7月、リュボフィさんたちは空路、日本に向かった。

現在、リュボフィさんたちが生活しているのは、堺市の市営住宅。来日後、2カ月間は日本語学校に通いながら、近所を散策し、日本での生活に慣れる訓練をした。その後、末娘・アニータさん(9)は地元の市立小学校に編入。いっぽう、リュボフィさん夫妻、それに長男・ラミンさん(16)は仕事を探していた。夫の友人の協力もあって、3人は昨年10月から、回転寿司チェーン「くら寿司」の寿司ネタを作る加工場で働いている。

「商品として提供するために魚を切る仕事です。はじめは不安もありましたけれど、少しずつ慣れてきました。家族一緒に同じところで働かせてもらえるのはありがたいです。ずっと下を向いて作業を続けるのは大変ですが、休み時間には職場の皆さんに日本語を教えてもらったり、私たちがウクライナ語を教えたり。カタコトの英語と身振り手振りでお話もできて、楽しく仕事をさせてもらっています」

慣れない日本での生活。とはいえ、仕事も見つかり、リュボフィさんたち家族にも、少しずつ笑顔が戻ってきた。だが戦争は、彼女たちが祖国を離れて1年以上がたったいまも終わる気配すらない。

「アニータは、通訳の方が週2日、一緒に登校してくれて、なんとか勉強にもついていけています。でも、自分だけまわりの子とは違うというのを感じているようで……」

リュボフィさんは顔を曇らせる。それは、アニータさんがときおり、涙ながらにこう訴えるから。

「早くウクライナに帰ろうよ」

娘の言葉に、父母は言葉を失いそうになるという。

「なだめすかすようにして『あと半年だから』とか、『あと1年だけ我慢して』と話すのが精いっぱいで。私のその言葉に、アニータはさらに激しく泣きじゃくってしまいます。親として、本当につらいです」

リュボフィさん自身、いまも突然涙があふれてくることがある。

「テレビやインターネットは基本的に見ません。つらいニュースに触れたくないから。見てしまうと夜、眠れなくなります。ウクライナのことを考えて、落ち込んで、頭が痛くなることもあります」

祖国を離れる決断を下したころは「秋には帰れる」と思っていた。秋になり、日本で仕事を得たころには「来年春には、きっと戦争も終わる」、そう信じていた。

「国からこんなに遠く離れて、これほど長い時間過ごした経験はありません。故郷に残してきた母や長女が心配でなりません。母はもう86歳になってしまいました。第二次世界大戦も経験した母は『私は生まれたときも、死ぬときも戦争なんだね』と、悲しい声で電話してきます。そんな母の言葉を聞くのも、とてもつらいです。

戦争が終わって平和になったウクライナの家で、昔のように家族みんなで暮らす、それが何よりの願いです」

彼らは前を向いて生きる。8千キロ離れた祖国に、平和が訪れる日を信じてーー。

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