病院の中で点滴と薬… 「姉は苦しみだけの人生だった」 失明・脱毛・繰り返す入退院… 当時18歳だった少女の “戦後”

広島は、まもなく78回目の原爆の日(8月6日)を迎えます。核を巡る緊張はますます高まっている…、こんな状況だからこそ、わたしたちは、これまでに取材した被爆者の方の声を今一度聞くことが大事だと思っています。お伝えするのは、ある被爆者が苦しみ続けた「戦後」です。

原爆投下から2か月後に撮影された大芝国民学校(現在の大芝小学校 広島・西区)。被爆直後から多くの被災者が詰めかけたこの学校は、臨時の救護病院となりました。当時の映像を見つめるのは、石川玉代さんです。広島市西区三篠の工場で被爆しました。同じ場所で被爆した友だちと一緒にこの救護所で治療を受けました。

石川玉代さん(1996年 証言)
「今、ちーちゃんが写った。あっ、これ。ちーちゃん」
- 間違いないですか?
「間違いないです。ここ(ほお)に傷があるでしょ。黒くなっているでしょ、ほっぺたに。傷なんです」

画面に映る小学生のようにも見える少女。「ちーちゃん」こと、森本千代子さんです。このとき、18歳でした。

石川玉代さん(1996年 証言)
「警防団の人が見張り所に来て、『警報が解除になりましたから』と降りられたものですから、わたしたち、防空頭巾とか脱いじゃったわけなんです。脱いだところにボガーンと来たんです」

左目を失明 戦後の人生のほとんどは病院の中で…

森本さんは、工場の窓ガラスが顔を直撃して、左目を失明。その後、右目も見えなくなりました。被爆直後は脱毛や下痢、発熱などの症状もあり、寝たきりの生活だったそうです。

森本さんは、その後、マッサージ師を目指して大阪の学校に通い、優秀な成績で卒業しました。しかし、マッサージ師になるという夢はかなえられませんでした。

森本千代子さんの妹 古沢郁子さん(1996年 証言)
「戦後の姉の人生は病院の中がほとんどですね。病院の中で注射と点滴と薬と…。苦しみだけの人生ですね。だから本当に姉はかわいそうですね。いろいろとありました。死にたいとか、殺してくれとか」

晩年は自宅で死にたいという本人の願いで退院。「薬も点滴もないので楽だ」とうれしそうに話していましたが、1週間後に血を吐いて亡くなりました。62歳でした。

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