家族と生きた証を後世に 長崎原爆資料館で収蔵資料展 「生きるのも地獄」…ある女性を支えた食器と証明書

被爆時に持って逃げた地理の教科書(手前)や親族の写真などを見せ、当時を語る林田さん=大村市溝陸町

 長崎原爆で焼けた自宅跡から掘り出した食器、家を失ったことが記された罹災(りさい)証明書-。長崎県大村市溝陸町の林田エイコさん(91)にとって、辛うじて助かった自身と家族の生きた証しだ。「資料を見て、後世に伝えてほしい」。長崎原爆資料館(長崎市平野町)で期間限定で展示中の資料に秘められた思いをひもといた。
 当時13歳。母とともに大黒町の自宅で被爆。土壁の下敷きになり、自宅は全焼した。避難先の防空壕(ごう)は人であふれ、夜は石坂で横になった。勤務先にいた父はドアの下敷きになり、腰を痛めた。
 「とりあえず食器を」。10日、焼けた自宅跡から釜を掘り出した。その後、無傷だった来客用の食器も掘り起こした。13日、加津佐の親戚を訪ねたが門前払い。砂浜で数夜を過ごした。何を食べたのか記憶にない。12月まで別の親族らの家を転々とした。
 1946年1月、長崎市南部の小屋に引っ越した。父は被爆時のけがで働けなくなり、母と林田さんが働いた。「生活保護は戸籍に残る」。そう聞き、受けなかった。水も電気もガスもなく、トイレは山の中。芋や、配給の小麦粉と海水で作った団子汁で腹を満たした。衣食住全てが節約と我慢、貧しい日々が続いた。
 55年、城栄町の戦災者緊急住宅に入居。電気が家につく生活がうれしかった。それでも「生まれてこなければよかった」と何度も思い、「生きるのも地獄」と原爆を恨んだ。
 そんな日々をともにしたのが、焼け跡から持って逃げた食器。どんぶり、湯飲み、小皿2枚。「家族の歴史を知ってほしい」。2001年、同館に寄贈した。
 それから20年余り。同館の担当者が昨年、寄贈資料にまつわるエピソードを聞く追加調査に訪れた。当時の体験を語り、母が必死で家から持ち出した罹災証明書の存在を明かすと、今では貴重な資料だという。「当時の物を見ると思い出してつらい。原爆には愚痴しかないが、伝えんといかん。こんなものでも何かの役に立てば」。10月、罹災証明書と印鑑紛失の証明書、父との写真を新たに託した。

収蔵資料展で展示されている林田さんの資料群=長崎原爆資料館

 同館の後藤杏学芸員は「被爆後も人生を生きようとした被爆者の生きざまが見える重要な資料群」と意義を語る。林田さんの資料を含む約90点を展示する同館の収蔵資料展では昨年度、被爆者らから新たに寄贈された資料や追加調査で分かったエピソードなどを紹介。入場無料。来年1月31日まで。

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