「6号艇発動」人間魚雷“回天” 出撃し生き残った男性の葛藤【後編】

終戦から78年。戦争について語ることができる人が年々少なくなっています。これまで報じてきた、戦争の証言を振りかえります。

※2015年8月にCBCテレビで放送した特集の記事です。

元搭乗員

出撃して生き残った特攻兵

“鉄の棺桶”と呼ばれた特攻兵器、人間魚雷「回天」。実際に出撃し、生き残った特攻兵が三重県伊賀市にいる。

坂本雅俊さん、89歳。終戦1か月前に、フィリピン沖での作戦に出撃した。

「はよ出してくれ、回天に乗って死にたい」

(元回天搭乗員 坂本雅俊さん)
「出撃のときに指令からいただいた。これ自決用ですから。(刃を腹に向けながら)こうやって」

「死ぬ覚悟はありました。しかし孤独になると、家族のことや友達のことを話したりする。慰めあったりしていた」

坂本さんの回天を運んだ潜水艦イ53号は、敵艦の位置を探る装置が、壊れたまま出撃。包囲され一斉攻撃を受けた。

(元回天搭乗員 坂本雅俊さん)
「爆雷攻撃で敵が真上というのはわかった。それが8月4日の日。沈没したらお陀仏やで、我々だけでも突っ込もうと。潜水艦の艦長にそう言おうと。回天を出してくれと嘆願した。はよ出してくれ、回天に乗って死にたいと。そして回天に乗り込んで『6号艇発動』と発動させようとしたのに、エンジンが回らなかった」

坂本さんが乗り込んだ回天は爆雷攻撃で故障し、動かなかった。仲間が発進していく中、気を失い、救助された。

(元回天搭乗員 坂本雅俊さん)
「それは残念で残念で。生きるとか死ぬとか、生死のことはなにも思わなかった。自分の判断とか裁量でどうにかできる状況じゃなかった」

戦後分かった攻撃成功率は…

1944年11月、回天は初めての実戦で停泊中の補給艦ミシシネワを撃沈。しかしこれ以降、アメリカ軍の警戒が強まり、移動中の船を狙うよう作戦変更を強いられた。前が見えない中、動いている物体に、推測で体当たりすることは困難を極め、失敗が続いた。

新聞は「神風」ならぬ「神潮」特攻隊として回天の戦果を華々しく伝えたが、防衛省の研究員が、戦後日米に残された資料を検証した結果、回天の攻撃成功率は…わずか2%だった。

回天搭乗員の訓練が行われていた島、山口県大津島では毎年11月、ミシシネワを撃沈した部隊の慰霊祭が開かれる。回天の開発者、黒木博司少佐の妹、教子さんの姿もあった。参加したのは300人以上だったが、確認できた回天搭乗員は、2人しかいなかった。

撃沈されたアメリカの補給艦ミシシネワの関係者も。乗員を救助したパイロットの娘夫婦だ。

(ミシシネワの乗員を救助したパイロットの娘夫婦)
「あれは絶望的に恐ろしい兵器だった。すごい時代だね」

元回天搭乗員の岡本さんが訓練していた、大分県の大神回天基地。その一角には、内部も正確に再現された回天の模型が設置された。

(訪れた人)
「狭いね。土管みたい」
「戦争末期、特攻に追い込まれていった事実を後世に残すため作られたということで。命を粗末にしている感じが…これに乗って若い人が行ったということを思うと…胸がいっぱいになる」

本土決戦に向け沿岸20か所に基地を計画

愛知県東浦町の大岩正一さん88歳。月に3回、健康のための運動教室に通っている。

(元回天搭乗員 大岩正一さん)
「70年前は特攻で死ぬため、今は生きるための訓練。誰かに迷惑をかけて長生きしたくないから」

大岩さんは終戦の10日ほど前、出撃のため、愛媛県の基地に配属された。

(元回天搭乗員 大岩正一さん)
「8月3日の夕方だったと思うが、きょう出撃するという命令が来て。昔は短刀をいただいて出撃していたが、短刀がなかったので香水をかけてくれた。本土決戦になると思っていた。どうすることもできんのだなと。残念とか悔しいとかを通り越して、やるしかないんだということ」

本土決戦を覚悟していた日本は、沿岸の約20か所に回天基地を計画。潜水艦は使わず、海岸から回天を発進させ、接近する敵艦を迎え撃つ作戦だった。

回天の本土配備は、愛知県の南知多町でも進められた。基地の完成前に日本は降伏し、実際に使われることはなかったが、回天搭乗員が住むための洞窟が残されている。

大岩さんは、出撃はしないまま基地で終戦を迎えた。

(元回天搭乗員 大岩正一さん)
「戦争に負けたんだなと。将来がどうなるんだろうと不安になった。一週間くらいで家に帰ったと思うけど。兄は戦死したということを聞いて。日本は大変なことをやっちゃったんだと思ったが、怒りをぶつける先がないので怒ったってしょうがないと」

兵器になろうとした若者たち

名古屋に住む、回天搭乗員の生き残り、岡本恭一さん(90)は、この日戦友を訪ねた。同じ基地で訓練していた大岩正一さんと15年ぶりの再会。ビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「もうあんたと2人きりになった。大津島に来ていた仲間も死んだ」

(元回天搭乗員 大岩正一さん)
「孫に昔の話をしようとしても聞いてくれないというか。特別いいことをしたというわけではなかったから。一度死ぬと決意しながら生き残った複雑な思い」

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「我々は訓練が死に直結すると思っていなかった。回天の中で泣いたとか、たまに聞くけど、そういう人は珍しいと思う。突撃したいと思っていたね。訓練の達成が一日も早くしたいと。ただ、私は大岩君がうらやましかったね」

(元回天搭乗員 大岩正一さん)
「命を落とすなんて全く考えなかった。戦果を挙げるんだと。そういう気持ちだけ」

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「誇りとは言わないけど、よくこういう兵器でよくやったなと思う」

三重県伊賀市に住む坂本雅俊さん。恐怖と戦うための軍歌を披露してくれた。

(元回天搭乗員 坂本雅俊さん)
「軍歌を歌ったり刀振ったり自分の心を鼓舞していた。成功することは死ぬこと。それとの葛藤が、いつも軍歌や刀で自分の心を静めていたというか押さえていたという感じ」

ことし、ひ孫も生まれた。

(元回天搭乗員 坂本雅俊さん)
「これからああいう戦争を起こすことは…平和でいけよという願いを込めてかわいいかわいいしている。あんな時代に生まれてくるなよと」

名古屋に住む特攻兵の生き残り、岡本さんに「生き残ったこと」についてどう振り返るかを聞いた。

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「終戦がわかったときはほっとした。生きていてよかったと思った」
「戦争はやらない方がいいけど、やむにやまれずやることもある」

Q70年前の自分に何と声をかけますか?
「『戦死してこい』と声をかけると思う」

あの時、若者たちは死ぬためだけに生きていた。わずか70年前の出来事だ。

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