長崎原爆翌日の「生き地獄」 詩人と画家が残したルポとスケッチ 数少ない記録を冊子に

東潤さんの資料と長男の昭徳さん(左)、吉村さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館

 1945年8月10日、旧日本軍の命令を受け、詩人の故東潤氏(1903~77年)、画家の故山田栄二氏(1912~85年)は長崎に入り、それぞれ文章と絵で惨状を残した。被爆78年目の夏、長崎市のメディアディレクター、吉村文庫さん(61)が東氏のルポルタージュと山田氏のスケッチをそれぞれ冊子にまとめた。吉村さんは「原爆被災の真っただ中で、記録目的で客観的な視点で書かれた貴重な資料」と重要性を語る。
 戦時中、西部軍報道部(福岡市)に所属していた2人と写真家の山端庸介氏らは1945年8月10日未明から夕方まで長崎に入った。3人が目にしたものは、その後、原爆投下翌日の数少ない記録となった。
 9日午後3時。3人は長崎視察の命を受け、博多駅から長崎行きの列車に乗り込んだ。列車は12時間後の10日未明、道ノ尾駅に止まり、一行は憲兵隊本部(炉粕町の現日本銀行長崎支店)を目指した。
 「朝を迎へた私達の目に入るものは、まさしくこの世の生地獄であつた」
 浦上天主堂の変わり果てた姿や燃えさかる建物。かかとの肉がないのに気付かずに歩いていた人に、救護班が声をかけると、自身のけがを自覚したのと同時に倒れた。
 「到底、正視の出来ない悪夢中の出来事であつた」
 10日午前6時、憲兵隊本部へたどり着いた一行は、許可を得て記録に向かった。無数の焼死体、死体を処理する囚人、救護の様子や町の被害-。東氏は文章、山田氏は29枚のスケッチと文、山端氏は写真にそれぞれ収め、同日午後5時、道ノ尾駅から博多へ帰った。
 3人の記録は連合国軍総司令部(GHQ)の報道規制が解かれた52年、写真集「原爆の長崎」に写真のほか、ルポと絵の一部が掲載。55年、雑誌「九州文学」にルポ全文が載った。
 東氏は山口県出身。芥川賞作家・火野葦平らと執筆活動に励んだ。山田氏は福岡県出身。独立美術協会に属し、戦後はパリを拠点に活躍した。
 「これは宝だ」-。2019年、東氏の長男、昭徳さん(81)がこう書かれたメモと箱を父の書斎で偶然見つけた。箱の中には長崎原爆投下の翌日を記した直筆原稿31枚が入っていた。
 吉村さんは山端氏の写真に対して、東、山田両氏の功績や資料が知られていないことが気になっていた。2021、22年、長崎ケーブルメディア(長崎市)で二人に関する番組を制作。今回、東氏のルポ全文、山田氏の全スケッチに解説と英訳を加えて冊子にした。
 昭徳さんは「父が記録したものを埋もれさせたくないという思いがずっと頭にあった。この記録を公開し、戦争や原爆の被害を伝えることに役に立ってほしい」と願った。
 冊子のタイトルは「被爆翌日 原爆の長崎ルポルタアジュ 浦上壊滅の日 東潤」(B5判、38ページ、500円)、「被爆翌日 原爆の長崎 山田栄二画集」(B5判、18ページ、800円)。長崎原爆資料館と好文堂書店で販売。電子書籍はフルカラーで、アマゾンのキンドルで扱っている。

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