消えた友達、真っ黒な人…広島で被爆「生かされた」少女、看護師に 「戦争だけは困る」生きている限り伝える

「私たちの戦争の歴史を学んでほしい」。広島の被爆体験を語る木内恭子さん=4日午後、埼玉県さいたま市大宮区の市立大宮図書館

 広島で9歳の時に被爆した木内恭子(ゆきこ)さん(87)=埼玉県川口市=が4日、さいたま市大宮区の市立大宮図書館で、被爆体験を講演した。原爆投下から78年。被爆者の高齢化が進む中、木内さんは「戦争だけは困る。生きている限りは伝えたい」と話した。

 1945年8月6日朝。空襲警報が鳴り、木内さんは防空頭巾をかぶり、防空壕(ごう)に入った。その後、米爆撃機B29が広島上空を離れ、警報は全て解除される。小学校の分校に向かった木内さんは、授業が始まるまで、6~7人の女の子たちと石蹴りをして遊んでいた。午前8時15分、突然「ピカッ」と光った。気絶した木内さんが目を見開くと、真っ暗で何も見えない。夜が明けるように明るくなっていくと、一人だけががれきの上に座っていた。周囲の建物は全てつぶれ、火の手が上がっている。一緒に遊んでいた友達は一人もいなかった。

 木内さんは頭にこぶができたものの、大きなけがはなかった。倒壊した建物や町中から、血だらけで顔が腫れ上がった人や、全身が真っ黒な人が押し寄せてきた。近くの川は無数の人で埋まっていた。顔を見ても誰か分からない男の人が、「ゆっこ」と呼んで手を差し伸べてきた。知っている人と思って、手をつないで歩いた。無事に帰宅してから、2歳上の兄と分かった。

 大やけどを負った兄を含め、家族全員が無事だった。木内さんは戦後、「生かされたのだから、役に立つことをしなくては」と看護師として働いた。放射能への不安を感じながら、結婚して娘を産み、孫3人に恵まれた。「7人家族で幸せに暮らしている。戦争だけはあっては困る。話し合いで解決してほしい」。核兵器の廃絶を強く訴え、「使われたらおしまい。使っても造ってもいけない。とにかく一般市民を巻き込むことは絶対に許されない」と語った。

 市立植竹小学校5年の伊藤友清さん(11)は、初めて被爆者の講演を聞いた。戦争や原爆に関心があり、自ら講演を聴きたいと考えて来館したという。「体験談を聴くことで、戦争や歴史が人ごとではなく身近に感じることができる。写真や絵を見るだけではなくて、もっと分かることがあると思った。知らないことが多かったので、貴重な話を聴けた」と話していた。

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