平和公園でかつて、この場所にあった街の慰霊祭が行われました。
「この世界の片隅に」ですずさんも歩いていた旧中島地区…。今は平和公園になっているこの場所は、かつて住宅や料亭・映画館が並ぶ広島一の繁華街でした。
旧中島地区出身 中村恭子さん(90)
「亡くなった方に安らかに眠っていただきたい。公園になり、なにもなく、ここに本当に人が住んでいたのかとみなさん、思われると思うんですが、ここにはたくさんの歴史がありますので」
原爆で失われた街―。その街の記憶を、最新技術を使って次世代に伝えようとする女性がいます。
広島出身で東京大学4年生の 庭田杏珠 さんです。
庭田さんは、高校生のころから戦前の広島の日常を写した白黒写真をAI技術を使ってカラー化し、当時の記憶を引き出す「記憶の解凍」プロジェクトに取り組んでいます。
庭田杏珠 さん
「個人の記憶というものに触れたときに『自分事』になってくる。五感を通して内側から感じることで自分事になってくる」
プロジェクトに取り組んでことしで6年。これまでに300枚以上の写真をカラー化してきました。
庭田杏珠 さん
「家族の日常の1コマ、これもわたしたちがふつうにお花見するじゃないですか、それと重ね合わせることができたり」
色のついた写真は、人々の日常…、豊かな営みが確かにそこに存在していたことを伝えます。
庭田さんが記憶の解凍に取り組む大きなきっかけとなったのが、中島本町の住民だった 浜井徳三 さんとの出会いです。
旧中島本町出身 浜井徳三 さん(2016年)
「そこを3階かららせん階段の手すりをすべりに下りに悪ガキどもが4~5人で行って、ここの職員の人に怒られていました」
当時、11歳だった浜井さんは、原爆によって中島本町に住んでいた家族を失い、孤児になりました。唯一、手元に残っていたのは、家族との思い出の写真でした。
「奪われた日常は、今と変わらず、尊いものだった」―。庭田さんは、失われた街の当時の姿を知る浜井さんに何度も話を聞き、浜井さんも庭田さんの思いに応えるようにたくさんの記憶を語りました。
庭田さんは、「記憶の色」に彩った白黒の写真や、浜井さんも登場するミュージックビデオを作成するなどして、中島本町の記憶を伝えています。
しかし、浜井さんは先月、88歳で亡くなりました。
東京大学 4年 庭田杏珠 さん(広島出身)
「平和公園に行ったら会えるんじゃないかなと思っています」
「浜井さんが亡くなられてから、ご自宅のあった場所に来るのは、これが初めてなので」
― 浜井さんとは何回も来たんじゃないですか?
「そうですね。何回もこの自宅のあるあたりには一緒に来ましたね」
浜井さんが亡くなって、およそ2週間が経ったこの日、庭田さんは浜井さんと何度も足を運んだ旧中島本町を訪れました。
庭田杏珠 さん
― 中島本町はどんな存在?
「わたしにとっては、平和記念公園ではなく、本当に中島地区と思っていつも歩くようになっていて、浜井さんが住んでいたとか、1人ひとりの思いや記憶が刻まれた場所で、とても心の支えになる場所」
カラー化した写真で戦前の暮らしを身近に感じ、平和について考えてほしい。庭田さん自身が浜井さんの体験を「自分事」として受け取り、身をもって感じてきたからこその思いです。
東京大学 4年 庭田杏珠 さん(広島出身)
「浜井さんは中島本町の出身の方。戦争体験者の方から受け取ったメッセージをわたしなりの方法でさまざまな表現を通じて発信し、その先に受け取った方が直接、話を聞いていないにしても、そのメッセージをその人なりの形で伝え続けていく。そういうことが新たな継承の形なのではと思う」
庭田さんは、「伝えてほしい」と願った浜井さんの思いを胸に街の記憶を発信し続けます。