血を吐いて倒れいく被爆者「次、死ぬのは私の番… そればかり思っていた」 医師と患者… 救護現場の記憶

広島は、まもなく原爆投下から78年となる原爆の日(8月6日)を迎えます。核を巡る緊張が高まる状況だからこそ、わたしたちは、これまでに取材した被爆者たちの声をお伝えしたいと考えています。今回は、被爆した医師と患者… 救護の現場の記憶です。

被爆から2か月後、1945年10月に撮影された映像にコンクリート造りの建物が写っています。袋町国民学校(現在の袋町小学校 広島・中区)です。焼け残った学校は救護所になり、校舎の1階が負傷者の治療にあてられました。

映像には、治療にあたる大田萩枝医師と、治療を受ける被爆者、上野栄子さんの姿がありました。撮影された50年後の1995年、まったく同じ場所で再会しました。

大田萩枝医師
「こういうこともあるんですね」
上野栄子さん
「おかげさまで50年長生きさせてもらいました」

1945年8月6日、当時19歳だった上野栄子さんは勤務先の広島市役所で被爆し、ガラスで大けがを負いました。上野さんは空襲の警戒警報が解除になったため、窓際で外をのぞいていたときでした。

上野栄子さん
「ダイヤモンドがパッと光ったように見えたんですよ。それきり分からなくなった。体が熱いんですよ。焼けてくるので。目が覚めて。市役所が焼けて窓から煙や火がどんどん来る中を池の中に入っていたんです。水をかぶって。ヤケドをされた方が来られて、池の中で火ぶくれになって死んでいるんですよ…みんな…」

上野さんは8月15日ごろまで、市役所の中で寝ていましたが、出血がひどく、袋町国民学校にトラックで運ばれました。

「ずっと最初から医療活動をしました」。医師の大田萩枝さんは、当時をこう振り返ります。県病院の眼科医だった大田萩枝さんは、爆心地から2キロの自宅で出勤前に被爆しました。その後、袋町国民学校で治療にあたりました。

大田萩枝医師
「本当の丸焼けですから。白衣もありませんでしょ。変な服を着ています。親戚からもらった着物をほどいて自分で作ったんです」

50年後、2人が再会したとき、かつて治療が行われていた場所で当時の映像を確認してもらいました。

血を吐き倒れていく人たち…「次は私の番だ」

上野さんは、治療を受けていたときのことをふり返ります。

上野栄子さん
「もともとおさげ髪にしていたんです、三つ編みに…。でも血がカチカチになって治療するのに邪魔だからと坊主(丸刈り)にされたんです、みな」

上野さんの頭には、被爆から40年がたった後に取り出すまで、ガラスが入っていたといいます。

上野栄子さん
「腕や顔に残っている傷は、全部ガラスの傷です。このように耳が切れているんです。出血がひどかったんです」

大田萩枝さんは、8月の終わりごろから、体に斑点が出る人や、髪の毛が抜ける人が出てきだしたといいます。上野さんも、そうした人たちを見てきました。

上野栄子さん
「血を吐いてね、亡くなっていきましたよ。もう、私の番、今度は私の番。亡くなっていったら、次は、今度は私の番と、そればっかり思っていました。あの時は。それが、先生、50年、生きさせてもらって…」

治療活動が行われた校舎は、戦後も補修を重ねて使われました。しかし、2人の再会から5年後の2000年、老朽化のため取り壊されました。その一部は保存され、袋町小学校内の平和資料館として、現在もあの日のことを今に伝えています。

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