記憶なくても核なき世界を 高崎蓉子さん 生後10カ月の時に広島で被爆、長崎で生きる

広島に原爆が投下された時刻に手を合わせる高崎さん=6日午前8時15分、西彼長与町高田郷

 「被爆の記憶がなくても核なき世界を願う心は同じ」-。生後10カ月の時、広島で被爆し、戦後、長崎で生きてきた華道師範、高崎蓉子さん(78)。「広島原爆の日」の6日朝、広島で被爆した両親(いずれも故人)に思いをはせながら、西彼長与町の自宅で、そっと目を閉じた。
 1944年9月、広島生まれ。9月に見頃を迎える芙蓉の花から「蓉子」と名付けられた。父、林田七之助は陸軍の職業軍人で通信業務に従事。父の部下が誕生を祝い、芙蓉を描いた色紙を贈ってくれた。
 両親によると広島市への空襲が激化し、母ミツ代は45年8月5日、廿日市に引っ越す準備を進めた。6日、広島に原爆投下。爆心地から南東に約4キロ離れた仁保町の自宅で母と被爆した。高崎さん自身、その記憶はなく、両親から聞いた「あの日」が被爆体験だ。
 爆風で窓ガラスは割れ、家の中の物は散乱したが、大きなけがはなかった。比治山の陸軍施設にいた父を捜して、母は爆心地へ近づいた。新しい命を宿していた母は、高崎さんを抱いて町をさまよった。至る所に黒焦げの死体が転がっていた。やけどを負い、うずくまっている子どもたちに、母は高崎さんの服を破り、包帯代わりに分け与えた。
 3日後、父とともに自宅に戻ったが、自宅に残したままだった芙蓉の色紙は見つからなかった。廿日市に引っ越した後、胎内被爆した弟が誕生。高崎さんが小学生になる前、両親の古里、長崎市に移り住んだ。
 両親は長年、被爆体験を話したがらなかった。母は差別や偏見を恐れ、娘の結婚を案じた。高崎さんは24歳で結婚し、翌年、長男を出産した。2年後、夫が亡くなった。母から口止めされていたのもあり、自身が被爆者だと最期まで伝えなかった。息子2人には小学校に入学した時に伝えた。大病を患ったことはないが、原爆の影響による病気におびえてきた。母は94歳で亡くなるまで娘や孫への影響を気にしていた。
 高崎さんを華道に導いたのは母。母が生け花を習い始めた時、凜(りん)とした講師の姿に憧れ、10代から花の道に入った。長崎いけばな連盟会長を12年、流派の一つ、小原流長崎支部長を22年務めた。原爆忌文芸大会に合わせ、2014年から平和をテーマにした生け花のレリーフを披露。今年も10日まで長崎ブリックホール(同市茂里町)で展示され、小原流は平和を象徴するハトを、芯を除いた傘で表現した。

高崎さんらの小原流が創作したハトのレリーフ=長崎ブリックホール

 6日朝、自宅の仏壇に花と水を供えた。母から受け継いだ習慣を毎年欠かすことはない。午前8時15分、広島市の平和記念式典を伝えるテレビの音声を聞きながら手を合わせた。外ではサイレンの音が響いた。
 生まれ故郷の被爆地広島であった5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)。岸田文雄首相は核廃絶を訴えたものの、米国の「核の傘」に依存する姿勢に変わりはなかった。「明るい未来を描けないからこそ、広島、長崎から核廃絶を訴え、平和な社会を求めたい」。記憶なき被爆者は、両親から継いだ体験を胸に平和への願いを花に重ね続ける。

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