「今日も明日も満員御礼」老舗劇団を女性4世代で守り続ける80歳の現役女優・佐々木愛さん

上演中の舞台『旅立つ家族』のキャストやスタッフが集合。佐々木愛さん(前列中央)の左隣は娘の明子さんで、右は孫の琴音さん

「1956年9月6日……アゴリさんはソウル赤十字病院で亡くなりました……。私が日本国籍のままだったことが災いして駆けつけることはできませんでした。♪うさぎ追いし かの山……」

情感あふれる台詞と、続いて口ずさむ童謡『故郷』の歌声に、満席の会場のあちこちから、すすり泣きが漏れ聞こえてくる。

7月1日午後2時より、東京・東池袋にある劇場「あうるすぽっと」にて上演された、劇団文化座による『旅立つ家族』。韓国の国民的画家である李仲燮(イ・ジュンソプ=アゴリ)と、妻で日本人の山本方子の苦難の生涯を、植民地時代から日韓の歴史を背景に描いた家族の物語だ。

ヒロイン・方子の現在を演じるのは文化座代表で、誰もが親しみを込め“愛さん”と呼ぶ女優の佐々木愛さん(80)。この日も、愛さんは80歳の誕生日を目前に控えながら、2時間40分の間、ほとんど舞台に出ずっぱり。しかも、劇場の隅々まで響きわたる声、その圧倒的な存在感で観客を魅了した。

終演後、楽屋で自らの化粧を落としながら言う。

「メークでもなんでも全部、自分でやります。女優業も、もう長いですから(笑)。コロナでお客さまの足が鈍った時期も続きましたが、今日も明日も満員御礼と聞いて、ありがたいですね。明後日からは四国ツアーに出ます」

ふだんの話ぶりも快活にして、背筋もピンと。いまなお地方公演も旺盛にこなしている。

「旅暮らしでは劇場やホテルの冷房の効きすぎが体にも喉にも大敵ですから、健康法はふだんから長袖を着て備えるくらいですね」

続いて、劇場ロビーに愛さんが向かうと、そこには制作部の原田明子さん(45)と最年少女優の原田琴音さん(22)が。3人は同じ文化座の劇団員というだけでなく、祖母、娘、孫の関係でもあり、これから3世代そろっての写真撮影となっていた。

「ママ、表情が引きつってる(笑)」

琴音さんが明子さんに言うと、

「だって私、裏方だから、写真に慣れてないのよ。こんなスリーショットは、もう最初で最後ね」

娘と孫の会話を聞きながら、

「2人とも、なかなかいい笑顔よ」

と言う愛さんに、明子さん、

「実は今、琴音に背中をコチョコチョやられてます!」

文化座は、昨年80周年を迎えた日本演劇界の老舗であり、創設以来、『荷車の歌』『土』『ビルマの竪琴』『命どぅ宝』など、社会の弱者に光を当て、平和を訴える作品を上演し続けてきた。劇団を創設した女優の一人は愛さんの実母であり、つまり愛さんたちは「女4世代」にわたって、文化座とわが国の新劇を表に陰に支えてきた長い歴史がある。

■芝居と全力で向き合う両親たちの姿に「私にはとうてい役者は務まらない」

「地から湧いた演劇」をモットーに文化座が結成されたのは、戦時下の1942年2月。演出家の佐佐木隆さんと女優の鈴木光枝さんを中心に仲間9人でのスタートだった。その1年後の1943年7月18日、この2人を両親に、愛さんは東京で生まれた。光枝さんは出産後3カ月で舞台復帰し、1歳の愛さんを伯母夫婦に預けて満州巡業に出てしまう。

「両親は終戦から1年後に帰国したものの、劇団再興のため、私を伯母の家に置いたまま別宅で暮らしました。でも伯母の家は建築業で羽振りもよく、実子と養女もいたので、私は3姉妹のつもりで楽しく暮らしていました」

とはいえ、幼いだけに両親の不在を寂しく思う場面もあった。

「ある日、私が両親の家に行って熱を出したときも、『芝居の稽古があるから』と置いていかれたことがありました」

その話を聞かされた伯母は、愛さんに言った。

「あなたの両親は、お金にはならないけど、人の幸せにつながる大切なお仕事をしているのよ」

ようやく小学校入学とともに北区田端で両親との同居が始まるが、

「母は『子供のせいで仕事を断るのはイヤ』と言い、けっして裕福ではなかったのですが、お手伝いさんを雇いました。その費用を稼ぐために女優業をしながら軒先に『靴下のお直し致します』の看板を掲げ、ナイロンストッキングの伝線を直す内職を始めたんです」

一方の父親は芝居には厳しかったが、ふだんは人間味豊かな硬骨漢。

「秋田の下級武士の家の長男で、徹底して差別を嫌い、口癖は『歴史を勉強しなさい』『読みかけの本を持ちなさい』でした」

同じ田端の、現在も文化座の稽古場がある場所に引っ越したのが小学4年のとき。地元の小中学校を経て、和光学園高等部へ進む。

「この家は、本当にドア1枚で私たち家族の住居と稽古場がつながっていました。部屋で勉強していると、稽古の音や劇団員がお酒を飲んで熱い演劇論を闘わせる声が聞こえるんです。その真剣さを目の当たりにして、私なんかにはとても役者は務まらないと思い、映画出演の話も来ましたが断り続けました」

中学ではテニス部、高校では美術部に所属。高2の進路相談では医師を目指すと話すつもりだったが、逆に担任にこう説得される。

「せっかくそういう環境に育っているんだから、ご両親と同じ道を考えてもいいのでは」

直後から、昼は高校生、夜は文化座研究生という生活が始まった。

初舞台は、高2の夏。広島の貧農に生まれた女性の生涯を描いた『荷車の歌』の孫娘役で、旅公演も経験した。主役は母で、演出は父だった。ところが愛さんが高校卒業後に正式に入座してまもなく、その隆さんが直腸がんの宣告を受ける。

「父のがんが知れわたって以降、公演に呼んでくれる主催者も激減し、劇団の経済状況も悪化して、私はテレビなどの仕事も積極的に引き受けるようになりました」

やがて連続ドラマ『絶唱』に主演してアイドル的な人気者となり、多忙な芸能活動の合間を縫っては父親を見舞っていた。

「自宅療養中など、隣が稽古場ですから、寝たきりのはずの父が突然ガウン姿で現れ、劇団員に『君、そういう芝居はいけません』とダメ出しする場面もありました」

生涯を演劇に捧げた隆さんが亡くなったのは、愛さんが24歳のとき。カリスマを失い劇団の存続が危ぶまれたが、母親の光枝さんが代表を継ぐこととなった。

■「女も自分と子供の身を守る経済力を」という母の教えを娘にも

愛さんが、8歳年上の照明スタッフの原田進平さんと結婚したのは27歳のとき。結婚に当たっては、心に決めていたことがあった。

「俳優同士の結婚は、無理だと思っていました。私は結婚しても、母のような、人生のすべてを芝居にかける生き方はしないつもりだったからです。仕事も家族の生活も大事にしたいと思いました。そうなると、子育てが始まったとしても、スタッフがパートナーだったら、忙しい時期も、うまい具合にズレますからね」

30歳で長男を、さらに5年後、明子さんを出産。この長男の妊娠時に、愛さんは都内から千葉県我孫子市へ転居していた。

「相変わらず女優業中心の母には頼れませんでしたから、身近に子育てを助けてくれる人が必要と思ったとき、我孫子に長くお手伝いさんだった人や親戚がいたんです」

朝は5時に起きて家族の朝食の準備。子供たちの前ではけっして台本を開かず、保育園では役員まで引き受けた。

「父母会で『誰か役員を引き受ける人はいませんか?』となったときの、あの静まり返った“間”が役者として耐えられなかった(笑)。気づいたら『私やります』と」

多忙な愛さんをサポートしなければと、保育園では親たちの結束がより強まったとか。

「相変わらず地方公演も、飛行機に乗ることも多かった。子供たちには『もしお母さんたちに旅先で万一のことがあっても、メソメソするんじゃなく、自立できる道を選びなさい』と話していました。私自身、母から『これからの時代は、女も自分と子供の身を守る経済力を身につけなさい』と言われて育ちましたから」

母親業もこなしながら、1978年には文化庁芸術祭優秀賞、1982年には紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞し、舞台女優としての地位を確立していく。

一方、同じころ、光枝さんも朝ドラ『マー姉ちゃん』でのいじわるばあさん役で注目され、母子は2世代女優として名を売ることになる。

【後編】80歳の現役女優・佐々木愛さんが孫娘へと引き継ぐ「舞台でしか味わえないモヤモヤ」へ続く

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