神戸空襲、そして終戦…食べ物くれた母は駅の待合室で亡くなった 12歳の戦争孤児、三宮で誰にも頼れず

神戸空襲を振り返る内藤博一さん=神戸市西区(撮影・中西幸大)

■内藤博一さん(90)=神戸市西区

 12歳だった。

 「はよ、逃げて!」という母の声に、家を飛び出した。焼夷(しょうい)弾が「ザーッ」と雨のように降ってくる。

 「自分が死んでんのか、生きてんのか、分からんようになった」

 1945(昭和20)年6月5日、神戸空襲のこと。神戸では度重なる空襲で8千人以上が亡くなった。

 それから78年。神戸市西区の内藤博一さんは90歳になった。妻と2人で暮らしながら、週1回デイサービスに通う日々を送る。

 10年前、血液のがんを患った。体調が優れない中、「これがもう最後や」とこの夏、取材に応じた。

 空襲下、神戸で何があったのか。孤児になった少年が、戦後をどう生きたのか。記憶をたどりながら、何度か頭を両手で抱えた。目が涙で満ちる。「思い出すのはつらい」。それでもまた、言葉を継いだ。

     ◇

 4人きょうだいの次男だった。戦争当時、神戸の春日野道で映画館「山新館」を営んでいた母光江さんと二つ上の兄、3歳の妹と暮らしていた。

 7歳の妹は集団疎開へ。映画関係の仕事をしていた父は別に生活し、戸籍には入っていなかったという。

 空襲の日-。博一さんが走った表通りは、逃げる人たちでごった返していた。そこに焼夷弾が落とされる。皆、地面に重なりあって伏せた。3分の2は起き上がることなく、亡きがらを踏んで進むしかなかった。

 すぐ目の前を逃げる親子がいた。母の背におぶわれた子は、首から上がなく、血が流れていた。

 高架下に避難したが、火が迫り、煙で息が苦しくてたまらない。防火用水で全身を濡らし、火の海に飛び込んだ。何度も倒れたが立ち上がり、生田川にたどり着いた。川にはいくつもの遺体が浮かんでいた。

 なぜ自分が助かったのか分からない。ただ、「生きてるんや」と思った。やけどの痛みは感じなかった。

     ◇

 それからは、焼けたまちで家族を捜し回った。食べるものがなく、塩をなめ、コンクリートにたまった水をすすった。

 1週間ほどたったころか。「お母ちゃん!」。自宅近くの国民学校で、光江さんと妹を見つけた。

 家の焼け跡に小屋を建てた。ほっとしたのもつかの間、3歳の妹が日に日に衰弱し、亡くなってしまう。

 「食べるものがないんやから、痩せて死ぬ以外、なかった」

 小さい体を木箱に納めた。光江さんと二人で焼こうとしたが、木ぎれが少なく、4日たってもうまくいかない。仕方なく、運動場に積まれた遺体の上に、妹を重ねた。

 兄とは6月の空襲以来、再会できないまま、8月15日の終戦を迎えた。

 それから2週間後。空腹に耐え続けていた博一さんと母は、食料を求めて三宮に出かけた。

 博一さんが駅の待合室で待っていると、光江さんが闇市の方向から帰ってきて、肉まんのような食べ物を手渡してくれた。

 その後、光江さんは「気分が悪い」とベンチに横になってしまった。顔色が悪い。博一さんの手を握り、「(疎開中の)妹をよろしく」とささやいて、息を引き取った。

 この日から、戦争孤児になった。もう誰にも頼れない。三宮には食べ物がある。ここで生きていくしかない。他の孤児と同じように、駅につながる地下道で寝泊まりした。

 夜は白い布にくるまって横になった。それは光江さんの唯一の遺品。映画館のスクリーンだった。

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 兵庫には5970人の戦争孤児がいたとされる。戦中、戦後を生き抜き、78年が経過した今なお悲しみを抱く孤児たちの声に耳を傾けたい。(中島摩子)

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