母の三味線「お盆の風物詩」に 踊りの輪重ねて70年、世代超え支えてきた一家の歩み 丹波篠山デカンショ祭

谷田さんの母ますゑさん(中央)。「死ぬまでバチを手に、デカンショをひき続ける」と語ったという=谷田さん提供

 浴衣に身を包んだ男女と子どもの3人。編み笠をかぶった大人たちのしなやかな身ぶり手ぶりが、祭りのにぎやかさを物語る。

 兵庫県丹波篠山市役所前にたたずむデカンショ踊りのブロンズ像3体だ。「丹波篠山デカンショ祭」のメイン会場、篠山城跡三の丸広場を望む場所で、市のシンボルともいうべき祭りや踊りの魅力を伝える。

 中央に立つ男性像のモデルは、同市の谷田治さん(87)。踊りの名手で、「デカンショ節保存会」の会長を務めた。

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 谷田さんとデカンショの出合いは、音楽からだった。母・ますゑさんは三味線の名人で、盆踊りのシーズンは「地方(じかた)」として活躍。夏の三味線は、お盆到来を感じさせる音だった。

 1953(昭和28)年8月、デカンショ祭が始まった。「丹波篠山デカンショ祭五十回記念誌」によると、それまでの花火大会の趣向を変え、「デカンショ納涼踊りの夕」、灯籠流しなどが行われた。

 ますゑさんは、第1回から地方として演奏。谷田さんは高校生で、夏に聞くメロディーが、この年を境にデカンショ節中心に変わった。「元気のよい、軽快な音楽という印象やった。心なしか三味線の音もより大きくなったように感じて。母の三味線が私にとってのデカンショやったね」

 初期の祭りは、篠山川京口橋下流の河原が会場で、近隣から住民が集まるぐらい。「踊り子さんは女の人が多くて、その輪に小さい子どもがちょいと入ってね。その頃はデカンショ節だけでなく、他の盆踊りの曲もよく聞きましたよ」

 踊りも統一された今とは違い、「振り付けはあってないようなもんで、みんな見よう見まね」。谷田さんは踊りの輪に加わらなかったが、「楽しそうな雰囲気は伝わってきた。女性の浴衣を羽織って仮装した男の人もいたかな。見ているだけでも面白い、地域の楽しみの場でした」

 そのまま高校を卒業し、旧篠山町役場の職員になった。56年、第11回国民体育大会で、兵庫県が開催地となり、マスゲームにデカンショ踊りが取り上げられると決まった。「俺も出るから、谷田君も出ろよ」。青年団団長から、事務局の谷田さんは「ご指名」を受ける。20歳。「デカンショ人生」は突如、幕を開けた。

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 ♪ヨーイヨーイ、デッカンショ! 城跡に威勢のよいかけ声や手拍子がこだまする-。丹波篠山市のお盆の風物詩、「丹波篠山デカンショ祭」が8月15、16日、4年ぶりに通常開催される。今年は祭りが始まってちょうど70年の節目。親、子、孫へ、世代を超えて長年、祭りを支えてきた「谷田さん一家」の歩みと重ね合わせ、県内有数の祭典の歴史を振り返る。(この連載は堀井正純、秋山亮太、伊藤颯真が担当します)

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