長崎原爆の日、2世の岩崎さん「被爆者の親に一番近いのはその子ども」 父の言葉胸に兵庫から祈り

「被爆2世としてどう継承していくのか考えたい」と話す岩崎久志さん=神戸市西区学園西町3

 被爆78年の長崎で9日に営まれる平和祈念式典は台風接近のため、被爆者や遺族の参列は見送られた。兵庫県代表として参列する予定だった被爆2世で流通科学大人間社会学部教授の岩崎久志さん(61)=兵庫県尼崎市=は当日、兵庫から被爆地に祈りをささげる。多くを語らなかった亡き父の「戦争はあってはならない」という言葉を胸に「2世としてどう継承していくのか。改めて考えたい」と語る。

 岩崎さんの両親は、原爆投下後の長崎市内に入り入市被爆した。

 母八ヱ子さん(94)=兵庫県伊丹市=は当時、爆心地から約3キロの貯金局に勤めていた。実家は長崎から約18キロ離れた端島(通称・軍艦島)にあり、寮に住みながら週末は端島に帰る生活を送っていた。原爆が投下された9日も端島にいた。

 前週末を実家で過ごし、用心深かった母親に「(長崎市に)帰るな」と言われて端島にとどまったことが、直接の被爆を免れた。

 数日後、おにぎりを持って長崎市内に戻った八ヱ子さんは「黒焦げになった死体に、米粒を一粒ずつお供えして歩いた」という。夏場に放置された遺体は傷み、また、あちこちで遺体が焼かれていたといい、「何とも言えない嫌なにおい。たまらん」と振り返った。

 岩崎さんの父久彌さん(故人)は、長崎市東部の戸石町から原爆さく裂後の光線を見た。爆心地から離れていたため、直接の被爆は免れたが、投下後に爆心地近くに赴いた。離れた戸石町でも「図書が燃えて舞い上がっているのを見た」と話したが、爆心地近くで見た光景については、一切語らなかった。

 終戦後、久彌さんと八ヱ子さんは出会い、結婚。仕事の関係で大阪に移った後、岩崎さんが生まれた。未熟児だったため、両親は「原爆の影響かもしれない」と心配したと想像する。岩崎さん自身も「何かが少し違えば存在しなかったかもしれない。巡り合わせで生きている」と感じてきた。

 5年ほど前、放射線による人体への影響を学ぶ催しに参加した。それを機に、主催した「兵庫県被爆二世の会」に入会した。

 「被爆者である親に一番近いのは、その子ども」と岩崎さん。被爆者だけでなく2世も高齢化する中、どう語り継ぐのかについて危機感を抱く。「2世がどんな思いを抱え、どんな意識を持っているのか」。研究者という立場を生かし、2世へのインタビューも考えている。(安藤真子)

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