41歳で亡くなった被爆2世の夫、夢を継いで喫茶店を開いた妻 「ここまでやったで」 赤穂「ほっとたいむ」

被爆2世の望月喜章さんが発案し、妻が引き継いでつくり上げた喫茶店=赤穂市東有年

 1945年8月に広島と長崎に投下された原爆は、被爆者を親に持つ「被爆2世」にも暗い影を落としている。父が長崎で被爆した兵庫県赤穂市の望月喜章さんは23年前、41歳の若さで病気で亡くなった。父の被爆との因果関係は分からないが、残された望月さんの妻(60)は「戦争が悪い」とぶつけようのない怒りを抱えつつも、同市内で夫の夢だったカフェを営み続けている。(小谷千穂)

 赤穂市東有年の喫茶店「ほっとたいむ」。店主を務める望月さんの妻は「ここは夫がどうしてもつくりたかった場所なんです」と切ない表情を浮かべる。

 望月さんは運送会社で働いていた。会社の健康づくりでウオーキングをしていた39歳の頃、運動した以上に痩せていく。検査の結果、症例が少ない悪性腫瘍「平滑筋肉腫」が胃から見つかった。

 闘病中、自分からは家族や友人に会いに行くことができない。望月さんは「向こうから来てもらって、ゆっくりしてもらう場所をつくりたい」と語り、ノートにびっしり店の計画を書き込んだ。コーヒーカップやカーテンも購入した。亡くなって5年後、妻はその思いを継いで自宅近くに喫茶店をオープンさせた。

 早過ぎる別れに、妻は今も夫の話をするたびに声が震え、涙が出る。「なんであんな早く亡くなったんやろ」。理由として浮かぶのは原爆だった。

    

 治療の途中、医師から「放射線の異常数値が出ているが、浴びたことはあるか」と聞かれたという。仕事や普段の生活で、思い当たる節はなかった。望月さんは少し考えた後、父親が被爆者だと妻に打ち明けた。

 父の喜八郎さん=2007年に81歳で死去=は19歳の時、兵隊として原爆投下直後から長崎の被爆地に入り、がれきの片付けを担った。いわゆる「入市被爆」だった。亡きがらにすがる幼い子や、卵が腐ったような臭いがするウジ虫がわいた遺体の数々、1カ所に集めて火を付けると立ち上がるように遺体が動いた様子-。地獄のような光景が、脳裏にこびりついていたという。

 喜八郎さん自身は被爆の影響が少なかったが、望月さんの妻が尋ねて初めて、家族に被爆体験を語った。あまりにつらくて、話せなかったのかもしれない。息子の病気を知り、「わしのせいや」と声を落とした。その後、喜八郎さんも寝られない日々が続いたという。家族は「お父さんのせいじゃない。全て戦争が悪い」と励ました。

 被爆2世への遺伝的影響を国は認めておらず、公費による医療費全額負担などの被爆者援護法の対象外となっている。「全国被爆二世団体連絡協議会」などは、同法を2世にも適用し、一般的ながん検診を実施するよう国に求めてきたが、実現していない。

 放射線の数値が高かった望月さんは、放射線治療ができなかった。弱っていく中、「なんで俺なんやろう」とこぼしていたという。

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 店はオープンから20年近くたった今も、多くの人でにぎわう。キッチンには望月さんの写真が飾られている。還暦を迎えた妻は今年4月、望月さんが書いた店の計画ノートをお墓に納めた。墓石に手を合わせ、「あんまり一緒におられへんかったけど、私はここまでやったで」と胸を張って報告した。夫の思いとともに、今後もできる限り店を続けていくつもりだ。

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