《連載:想いを紡ぐ 戦後78年》(2) 鉾田陸軍飛行学校の整備員 市村清成さん(93) 茨城・鉾田 米兵笑み 戦力差痛感 #戦争の記憶

整備員として働いていた鉾田陸軍飛行学校での体験を語る市村清成さん=鉾田市塔ケ崎

■爆撃を受け格納庫大破

茨城県鉾田市塔ケ崎の市村清成さん(93)は太平洋戦争末期、特攻隊の基地となった鉾田陸軍飛行学校の整備員だった。「兵隊だけでなく、整備員も犠牲になった。配属先が違えば、自分もどうなったか」と振り返る。

幼い頃から、実家のある同市秋山の上空を悠々と飛ぶ飛行機に憧れた。海軍の飛行兵も考えたが、身長が低く断念。代わりに飛行学校の採用試験を受け、徳宿国民学校高等科を卒業した1943年、13歳で飛行学校の整備員になった。

配属先は、主に壊れた機体を扱う整備小隊。まだ使える部品を取り出す地味な作業に明け暮れたが、機械いじりは好きだった。何より、戦闘機や訓練の様子を教えてくれる飛行兵との対話がうれしかった。

■必死に機体隠す

就寝中のある夜、非常呼集がかかった。敵機襲来。格納庫に収納された2機を隠すため、約500メートル先の掩体壕(えんたいごう)まで同僚5~6人と必死で押した。「暗いうちは来ない。朝までに運ばなければ」。夢中で運び終えると、東の空が白んでいた。程なくして十数機の米機が飛行学校を襲った。

掩体壕の中からうかがうと、格納庫に爆弾が投下され、滑走路は機銃掃射を受けていた。低空で飛ぶ敵機の操縦席には、余裕の笑みを浮かべる米兵の姿。当時の飛行学校に応戦可能な機体はほとんどなく、わが物顔で飛ぶ敵機を眺めることしかできなかった。「こんなんで勝てるわけない」。米軍との戦力差を痛感した。

格納庫は大破。使える工具を持ち出し、数人の同僚と飛行学校を離れた。近くの民家の納屋を借りたり、林の中にテントを張ったりして作業場にしたが、「やることはほとんどなかった」。散り散りになった仲間も見つからなかった。

■特攻は「命令」

飛行学校は戦況悪化に伴い44年6月、鉾田教導飛行師団に改編され、軍事拠点となる。同年10月には陸軍初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」出撃を見送った。隊員は志願者とされていたが、「そんな話はうそ。命令で行かされた」。

終戦間際はやることもなく、仕事に行かなくなった。戦後、飛行学校は跡形もなく解体。同僚たちの安否はついに分からなかった。

消息を知ったのは戦後30年近くたった74年10月。学校跡地近くに顕彰碑が建立された時だ。先輩や同僚の整備員は、特攻隊との帯同や空襲で戦死していた。以来、顕彰碑の近くを通る時に線香を供えている。

これまで人前で体験を語る機会はなかったが、昨年初めて参列した慰霊祭で遺族らに話すと、長年の胸のつかえが下りたような気がした。「自分が分かる範囲で話したい」。伝えることの大切さを今、かみしめている。

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