「誤審を犯したことはあります」甲子園30年のレジェンド審判が回顧する<昭和の怪物>江川卓が投げた試合での出来事

2023年。本来の姿に戻った夏の甲子園。試合結果の一方で、話題になりがちなのが審判の判定だ。

地方大会では、神奈川県の「横浜」対「慶應義塾」戦において、セカンドベースを踏んだ、踏んでいないで判定に疑義が生まれた。インターネット上では「誤審では?」の声が飛び交った。こうした高校野球の判定についての騒ぎは、そのほかの地域からもこの夏、聞こえてきた。

甲子園の歴史上、「最高試合」と言われているのが、1979年8月16日の「箕島」(和歌山)対「星稜」(石川)の延長18回で決した試合だ。 “おっさんデスク”の私も中学生の時、ナイトゲームになったこの試合に、テレビの前でくぎ付けになった。負けた星稜高校のエース・堅田投手は、のちに審判となって甲子園に帰ってきた話も高校野球ファンの間では有名だ。

この試合は1対1で延長戦に。12回表に星稜が1点勝ち越し1対2。しかし、その裏に箕島が追いつき2対2。16回表に星稜がまたも1点勝ち越し2対3。しかし、その裏に箕島が追いつく。そして、18回裏に箕島がサヨナラ勝ち。この展開の中に「隠し玉」「ファースト転倒」「2アウト走者無しからホームランによる同点が2度」など、まさに筋書きのないドラマが次々に生まれ、両校エースが200球以上を投げ合った激闘だった。「甲子園の最高試合は?」と聞かれると、目の肥えた高校野球ファンの多くが「箕島星稜だね」と言うほどの伝説。その時の選手たちは、もう還暦となっている。

この試合を裁いたのが球審・永野元玄(ながの・もとはる)さん。現在87歳。甲子園で30年、春夏あわせて14回の決勝戦を球審として裁いた永野さんが、自身の「誤審」について今回の取材で振り返ってくれた。

「明らかな私の誤審です」

『審判として、大きな誤審を犯してしまったことが残念ながら幾つかありますが、その中で最も物議を醸し、即ルール改正へと直結した誤審をしたのが、1973年(昭和48年)、夏の甲子園大会に於ける「銚子商業」(千葉)対「作新学院」(栃木)戦に於ける捕手によるホーム・プレートのブロック(走塁妨害)行為に対する判定ミスでした』

1973年8月16日の銚子商業と作新学院の一戦。試合は、0対0で延長戦に入り、10回裏、銚子商業が2死走者2塁と1打出ればサヨナラの場面。放たれた打球はライトへ。走者はホームのそこまで来ている。ライトからの送球もそこまで来ている。

走者は頭から滑り込んで来た。その時、作新学院の捕手はボールを持たないで、本塁をブロックしていた。タイミングは明らかにセーフでサヨナラの状態。しかし、ヘッド・スライディングした走者の手はおよそ50センチ手前でブロックされて、捕手の左足に押しつぶされた状態でホームベースには届いていなかった。

この時、球審・永野さんはこの妨害行為をオブストラクション(走塁妨害)として判定せず、「アウト」を宣告したのだった。振り返って「明らかな私の誤審です」と告白した。すぐにアウトを撤回して、得点を与えるべきだったのを、やり過ごしてしまった痛恨の大誤審だったとのこと。「少し時間が経っても判定を撤回すべきだった・・」と今でも悔いが残る。

このプレーと判定がきっかけで、ルールブックが変更となった。「捕手は既にボールを所持している時しか塁線上に位置することができない」と明記されたのだった。永野さんが「アウト」を宣告した瞬間、滑り込んできた走者の顔を見ると、鮮血に染まって顔が真っ赤になっていたという。

『実は後にも先にもこの時だけ(銚子商業が勝ってくれないかな…)と正直祈るような気持ちになってしまいました。いけないことではあります』

「救われた」安堵した瞬間

この試合は途中から雨となり、延長戦になって大雨に。ボールがすべり、制球を乱した作新学院のエース江川卓投手は 12回裏1死満塁のピンチを招く。球審・永野さんは「タイム」の要求を受けた。(あれ?こんな状況下で何だろう?)と思ったそうだ。カウント3ボール2ストライク 。江川投手は内野手全員をマウンドに集めた。話し合いは20秒ほど。そして皆、定位置へ戻ったという。

この時、江川投手は「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」と告げたのだった。永野さんによると、本人はチームメイトに「ふざけるな、ここで負けたら終わりなんだからちゃんとストライクを入れろ」と言われることを覚悟していたというが、「おお、いいよ。ここまでこられたのはお前のおかげなんだから、お前の気の済むように投げろ」という内容の言葉をくれたそうだ。

直後、江川投手が投じた この試合169球目のストレートは、明らかに高く外れる「ボール」で押し出し。0対1のサヨナラ負け。「昭和の怪物」最後の甲子園は幕を下ろした。

「審判員は私情を挟むことはない」と断言する永野さん。手加減したりすることも勿論許されないが、この試合だけは、終わってから(あ~救われた)と安堵したそうだ。もし、勝敗が逆になっていたら、あのホームベース上の「誤審」による悔いはさらに大きくなっていたと思われる。

この戦いから10日ほど経ってから、高野連が全日本チームを編成して韓国遠征に行った。作新・江川投手も当然選ばれた。永野さんもその一員として帯同、遠征中に江川投手と話す機会があったという。入学以来、マスコミを初め、常に追いかけまわされる日々が続いていて、チームメイトに対して「本当に申し訳ない」と感じていたことを語ってくれたという。それで、銚子商業戦の最後のマウンドでのやりとりとなっていったのである。

「審判のなり手がいない」という窮状を訴える声が日本各地から聞こえてくる。インターネット社会になり「誤審騒ぎ」はすぐに拡散。審判の方々への風当たりは永野さんの現役時代より急速に大きくなってしまう時代。

105回となるこの夏の甲子園大会も“奉仕活動”として高校野球を支えている審判のみなさんには敬意を表したい。永野さんは住友金属(当時)社員だった。春・夏の甲子園大会の期間は会社に休暇申請し審判員として球児たちを支えた。

「審判がいたかどうかわからない試合がいい試合なんです」そう言い続けていた永野さんは57歳で一線を退いた。甲子園のグラウンド上で300試合を見届けた。「誤審」はあってはならないが、苦しみは審判員も一生背負う。87歳の“レジェンド球審”は静かに打ち明けてくれた。

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