飛び立つ飛行機の操縦席から、白いマフラーがなびいた。「きれいだな」。矢板市東泉、森戸正子(もりとまさこ)さん(86)は、子ども心にそう思った。当時、国民学校の低学年。飛行機は上空を旋回し、空のかなたに消えた。
黒磯町埼玉(現那須塩原市)などにあった那須野陸軍飛行場。森戸さんはそこで特攻隊員を見送った。それが“決死の出撃”と分かっていた。ただ、「死」の実感はなかったという。
「親だったら見ていられないでしょうね。それでお別れですもの。隊員はどんな思いで行ったのかな」と、遠くを見つめた。
飛行場は1942年、黒磯駅の西方約4~5キロの辺りに、熊谷陸軍飛行学校那須野分教所として開設。45年5月に特攻隊が12隊編成され、終戦2日前まで出撃していたとの記録が残る。
森戸さんは同町出身。学校の友だちと2、3度、飛行場から出撃する特攻隊を見送った。
飛行場の片隅に粗末なテーブルが置かれ、杯が並んでいた。敬礼する隊員。飲み干して駆けだし、飛行機に乗り込んだ。
「兵隊さんはみんな若かった。私たちが手を振るもんだから、兵隊さんも白いマフラーを振ってくれた」
当時、森戸さんの家にも九州と関西出身の2人が下宿し、「お兄さん」と呼んでいた。仲間の隊員もよく遊びに訪れ、森戸さんは近所の子たちと一緒に踊りを見せたこともあった。
ある日、森戸さんの家に連絡が入った。すると母が風呂をたき、お兄さんが入った。お兄さんは荷物をまとめ、「これをうちに送ってほしい」と母に預けた。
風呂場の前を通ると、お兄さんが泣いていた。びっくりして母に伝えると、「見てはいけない」と叱られた。「特攻隊として出撃命令を受けていた。最期だと思って泣いたんでしょうね」。森戸さんはその光景を忘れられない。
その時の隊員は生還したが、遊び相手になってくれた隊員の中には特攻で亡くなった人もいると聞いた。
終戦から間もなく78年。「今のことは忘れるけど、あの頃のことはよく覚えている」と森戸さんは話す。「10代、20代の人たちが毎日亡くなっていった。悲しいことです。今生きていたら、どんな風になっていただろう」