叫んだ母、飛び起き…窓が粉々に 震えた空襲、焼けた人の行列…胸だらりと出た女性、子と手つなぎ放心状態

疎開先の熊谷で父がくれた千代紙を貼って作った台紙を膝の上に置き、当時の体験談を語る掘越美恵子さん=4日、羽生市本川俣の自宅

 「戦争は国のためではなく私欲。語り継いでいくことで世の中が変わる一つの転機になれば」。終戦前日の1945年8月14日夜、米軍機の焼夷(しょうい)弾が埼玉県の北都に降り注いだ熊谷空襲。中心市街地の3分の2を焼き、266人が犠牲となった。千葉県・市川から熊谷に疎開し、当時10歳だった掘越美恵子さん(88)=羽生市本川俣=にとって、東京大空襲に続き2度目の空襲経験だった。悲惨な体験は78年が経過した今も胸に刻み込まれている。

 国民学校5年生だった掘越さんは、父が勤めていた東京大研究所が東京大空襲で焼失し、安全な地を求め熊谷に疎開していた。当時の熊谷は市川と比べて田舎で、景色も言葉も全てが珍しく映った。「兵隊さんのことを思えば何でもない」。砂利の少ない所を選びながら学校まで約50分、はだしで通った。

 「美恵子!起きなさい!」。8月14日午後11時ごろ、自宅で寝ていたところ、母親の叫び声で飛び起きた。枕元のかばんと水筒を手に、防空頭巾を身に着けた。雨戸を開けると、外は昼間のよう。「ドカーン」というごう音とともに、家の前方にちょうちん行列ができた。焼夷弾だ。その後、空襲警報が鳴った。逃げる時間はなかった。

 市街地は真っ赤。弟の手を引っ張り、田んぼの中にある共同防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。爆弾が落ちると「ドスン」と地響きがした。弟を抱きかかえて目をつむり、耳を押さえた。体の震えが止まらなかった。「南無阿弥陀仏」と唱える近所のおばあさんの声は焼夷弾が落ちるたびに大きくなる。

 空襲警報の解除後、どうやって自宅まで戻ったのかは覚えていない。隣家は焼けたが、自宅は残った。焼夷弾の臭いが充満し、ガラスは爆風で粉々になった。幸い家族は無事だったが、もし家の防空壕にいたら焼夷弾が直撃して全滅していた。

 熊谷空襲が起こる約5カ月前の3月10日、東京大空襲の被害者も目にしていた。焼け出された人々が江戸川を挟んだ東京から市川方面に来る様子は「おばけの行列のようだった」。胸がだらりと出た女性、放心状態で手を引かれる子ども。みんな泣きも話しもしない。ただ、うつろな目で「ヒタヒタ」と歩いていた。

 戦火で古里を追われる人々はいまも絶えない。2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻。終戦の気配はなく、日本にもウクライナからの避難者が暮らしている。掘越さんは「戦争に限らず争い事はしてはいけない。それは国のためではなく私欲」と断じ、「残された命に感謝し、毎日を過ごすことが平和ということではないか」と指摘する。

 戦後78年が経過し生き証人の数は減っている。後世に伝える意義を感じている掘越さんは記憶が薄れないよう、当時の経験を記録していた。編集に携わった羽生市に伝わる昔話などを集めた冊子「羽生昔がたり」第22巻には、自身のほか市内在住者の戦争体験談などを掲載している。

 「戦争体験を日本の歴史として残したい。語り継いでいくことで世の中が変わる一つの転機になれば。ただ、もし人々が今の世の中を平和だと思っていたら難しい。だって今も本当の平和とは言わないもの」

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