「叔母が生きた証し」命奪った機銃弾、今も手元に 中塩さん(青森・三沢市) #戦争の記憶

海軍三沢航空基地への空襲で亡くなったキミさんの写真と、キミさんの命を奪った機銃弾
キミさんの命日に、墓前で手を合わせる弘子さん=9日、三沢市の瑞泉寺

 戦禍の悲劇を物語る1発の機銃弾が青森県三沢市に遺(のこ)されている。1945(昭和20)年8月9日、当時の海軍三沢航空基地を狙った米軍による空襲で、国民学校の教員だった中塩キミさん(当時17)が民間人としてただ一人亡くなった。同市の雑貨店「中塩」を営む中塩弘子さん(70)はキミさんの母から娘の命を奪った弾を託され、大事に保管してきた。「叔母が生きた証し」として、大切に守り続けようと思っている。

 円筒の機銃弾の長さは13センチ、直径2センチ、重さ300グラム。黒ずんだ弾頭の先はつぶれ、何かにぶつかったような跡を残していた。薬きょうに目立った傷は見当たらず、火薬が入る中身は空っぽ。これが土葬されていたキミさんの遺骨の近くから61年前に見つかった。

 キミさんは11人きょうだいの四女。キミさんのおい孝司さん(76)と結婚して創業75年となる店ののれんを守ってきた弘子さんは、家族たちから伝え聞いてきた亡き叔母の話を胸に刻み、生きてきた。

 終戦の6日前。米軍による旧三沢村(現三沢市)の海軍三沢航空基地を標的にした空襲があった。降り注ぐ機銃弾の雨。爆撃機が飛行場の上空を飛び、基地のすぐ南側にあった中塩家にも被害が及んだ。

 一家は家の裏手にあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。キミさんと姉1人はなぜか家に残った。物取りが家に来るのを警戒していたのかもしれないが定かではない。2人は押し入れで布団をかぶって息を潜め、攻撃が収まるのを待った。

 ダダダダダ…。たんすや壁に穴が開いた。空襲が終わり無事だった姉がわれに返ると、キミさんが左胸から血を流し、亡くなっていた。その日の夜、亡きがらは両親によってリヤカーで運ばれ、古間木駅(現三沢駅)近くに埋められた。

 それから17年後の62(同37)年。改葬のため、家族らの手によりキミさんの遺骨が掘り起こされた。土の中から、鉄の塊が出てきたのが見つかった。キミさんの左胸を捉えた、あの弾。状況からそう判断されて間違いなかった。

 「とにかくあの日は暑かったんだ」

 キミさんの母とめよさんは生前、空襲についてこれくらいしか語らなかった。弘子さんはその姿を見て、わが子を失った悲しみを抑え込んでいたように思えた。そんなとめよさんが生前、弘子さんに託したゆかりの物は、1枚のモノクロ写真、尊い命を奪ったという弾だった。

 弘子さんはキミさんと会ったことはなく人柄も知らない。ただ、子を失ったとめよさんの胸中は母として痛いほど分かった。「この弾がキミちゃんの体のどこかに入っていたんだ」。とめよさんの口癖がうつってキミさんを「ちゃん」づけして呼ぶようになった。やがて弾が遺品や形見のように思えるようになった。高度成長期を迎え、米軍や観光客が訪れるようになり、店はにぎわっていく。孝司さんの体調が優れない日が続く今、「店を守って」と背中を押してくれるお守りのようにさえ感じるようになった。

 8月9日、キミさんの命日。弘子さんは市内の寺を訪れ墓前で手を合わせた。「私たちを長生きさせてくださいね」

 戦後78年、遠ざかる戦争の歴史と薄れる記憶。離れて暮らす孫に弾を見てもらいたい。来年はキミさんが亡くなった年齢と同じ17歳になるから。そして知ってもらいたい。平和を願い、一人前の立派な教員になるという夢をかなえられぬまま生涯を閉じた、キミさんという存在を。

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海軍三沢航空基地への空襲 1945(昭和20)年7月14日、8月9、10日の3日間、米軍の爆撃機数十機が海軍三沢航空基地を襲った。兵士や軍属ら計27人が死亡。そのうち中塩キミさんも民間人として唯一命を落とした。馬産地だったこともあり、馬も20頭以上死んだ。敗戦後、基地は米軍によって同年10月まで接収。46年から米軍三沢基地の建設が始まり、2年かけて現在の礎が築かれた。

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