「高岡発ニッポン再興」その95 番外編 戦争を考える② 「ソ連参戦」の衝撃

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・ソ連の対日宣戦布告は、ポツダム宣言受託に踏み切れなかった日本政府の決定打になった。

・鈴木総理、この戦はこの内閣で始末をつけるとして宮中へ。

・天皇と謁見後、官邸で貫太郎は、「ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結する」と述べた。

同盟通信外報部長の長谷川才次は8月9日午前3時、書記官長の迫田常久に、驚くべき情報を与えたのです。サンフランシスコ放送によれば、ソ連が対日宣戦を布告したというのです。

「長谷川君、電報を読み間違えていないかい」。迫水は大声を発した。怒りで全身の血が逆流したのです。眠気は一気に覚めました。

原爆投下でも、ポツダム宣言受託に踏み切れなかった日本政府にとって、このソ連参戦は決定打になったといいます。

どうしてなのでしょうか。ソ連は日本にとって頼みの綱だったのです。昭和16年4月に日ソ中立条約を結び、その期限は21年3月までとなっているのです。

日本政府内では、ソ連は許しがたい裏切りでした。かつてドイツ軍がソ連軍を追い詰めた際、ドイツが日独伊の三国同盟によって、シベリアに出兵するよう要請したにもかかわらず、日本は「日ソ中立条約の方が三国同盟より優先する」と主張し、派兵要請を断りました。

日本は日ソ中立条約をそこまで重視していたにもかかわらず、ソ連が派兵したのです。日本にとっては絶体絶命のピンチです。

ソ連は当初、ドイツと戦争しており、極東で、日本と対峙したくなかったのです。ところが、昭和20年5月に事態は大きく変化しました。ベルリンが陥落し、ドイツは降伏したのです。

一方、鈴木貫太郎内閣はソ連に対し、和平のあっせんを依頼していたのです。外務大臣の東郷茂徳は、広田弘毅元総理にソ連との交渉をお願いした。

広田は6月3日、箱根の強羅ホテルで、駐日ソ連大使ヤコフ・マリクと会談したのです。日本は仲介をソ連にお願いしました。あとは、ソ連からはその回答を待つばかりでした。

また、ポツダム宣言では、アメリカ、イギリス、中華民国の3カ国連名でしたが、ソ連は名を連ねません。

日本の期待感が打ち破られた8月9日のソ連参戦です。迫水はすぐに電話で総理に報告し、小石川丸山町の総理私邸を訪れました。この時点で、ソ連は国境を越え、満州国や朝鮮東北部に侵入していたのです。満州の各地が爆撃を受けていたのです。総理私邸には、外務大臣の東郷も訪れていました。

貫太郎は、迫水と東郷を前に、開口一番、「いよいよ来るものが来ましたね」とつぶやきました。迫水は、政府としてどのようにしてこの最悪の事態に対峙すべきか、三つのシナリオが考えられると説明した。

「第一は、ソ連を仲介役とした和平交渉が失敗に終わったのだから責任をとって内閣総辞職することです。そしてもう一つは、ポツダム宣言を受諾し、終戦に持ち込むことです。そして、第三は、対ソ連宣戦詔書を受けて、戦争を継続することです」。

貫太郎は内閣総辞職する考えはないとしたうえで、「この戦はこの内閣で始末をつけましょう。とにかく、陛下の意向を伺いましょう」と語り、宮中に向かいました。自らの責任で、戦争の終結を考えたのです。

貫太郎の脳裏にあったのは、満洲です。ソ連軍は国境を越え、侵攻するだろう。そうなると、満洲は2カ月と持たない。悲惨な状況は容易に想像できました。

天皇と謁見した後、官邸に戻った貫太郎。どこか吹っ切れた様子で、朗らかな表情だった。

「陛下と相談し、ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結することにしました。必要な段取りを整えてください」

(つづく)

トップ写真:鈴木貫太郎大42代内閣総理大臣

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

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