平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」

牛島信弁護士・小説家・元検事)

故郷広島への転勤も一年だけで、二十九歳のとき弁護士になって広い東京に舞い戻りました。丸の内でした。隣は亜麻色の口髭のアメリカ人弁護士で、インベーダー・ゲームに夢中のようでした。

三十五歳になって青山に移りました。南青山一―一―一。明るい太陽の光と緑。毎日がイタリア暮らしの予感。確かに東京は広いようです。食事もイタメシが多くなりましたが、現実はトウキョウアイト(東京の人)の暮らしでした。

二十年して五十四歳を過ぎてから、永田町へ遷りました。青山の十四階から永田町の十四階へ、空を雁のように一列になって飛んで、窓から窓へ。

そして六年。

「えぽれっと(肩章) かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ) はや老いにけん」

南山の戦いを終え二十年前のベルリン時代を想う鷗外の感慨は、私のものでもあります。

毎晩、ベッドの中で漱石を読んで、それから目を閉じます。今は、何度目かの『明暗』です。

【まとめ】

・自分はどうやら死んでいくらしい、と思いながら死ぬ方がよいのではないか。石原慎太郎さんの死はそうだった。

・書いたものは残る。残ると思いながら死ぬことができるのが文章を書く人間の特権。

・石原さんの心の広さを再認識。本を書いていると起きる偶然がある。生きているのは良いものだ。

2年の検事生活を経て29歳で弁護士業開始、35歳で独立。

丸の内から南青山へ。そして54歳で永田町へ。

「空を雁のように一列になって飛んで、窓から窓へ」というのは、江藤淳のエッセイからの引用である。アメリカから帰ってきて、まるで無宿者のように妻と犬一匹とで各所を右往左往したあげく、遂に決心していろいろな出版社から七ところ借りに借りて市谷左門町にあるマンションを買い、奥さんと犬一匹で引っ越したのだ。そのときの喜びと覚悟。新居のあの部分はあの出版社からの借金、あちらの部分はあの出版社からの前借りであっても、と隠し切れない悦びが溢れていた。そのときの江藤さんの心のなかにあった心象風景を改めて思う。私自身は、江藤さんが自らを叱咤しなければならないような心境だったわけではない。しかし、初めて読んだときからこの表現が気に入っていたので、それでこの年の引っ越しを知らせる年賀状に使ってみたのだ。

ところが、今回、江藤さんのどの本からの引用だったのかを探してみたのだが、みつからない。彼がアメリカへ行く前後の苦労話を書いた本だったのは覚えているのだが。

私の雁の列は長かった。50人ははるかに超えていたろう。それが一列になって、と想像したわけだ。54歳で永田町。私の気持ちの上ではもっと若いときのことのような気がしてならない。せいぜい42,3歳。私は大いに張り切っていたと思う。やはり江藤さんと同じかもしれない。

大家さんである三菱地所に拡張をお願いしたら、南青山のツイン・ビルではワン・フロアが350坪なので将来の拡大に限界がある、これを機会に山王パークタワーに移っては如何ですか、と勧められたのだった。まことに有難いお話だった。正面玄関というものがない青山のツインビルと比べて堂々とした外観と玄関で、ワンフロアも広く、天井も高かった。駐車場もきれいだった。しかも、ビルが大きいから将来の借り増しもできる。申し分がなかった。

それでも、南青山という素敵な名前の場所から永田町という地名の場所に移るのは、すこし抵抗があった。永田町では、政治家の巣ではないか、そこには力と汚れたイメージがある。それは司法に携わる者の本拠にはふさわしくない、という思いだった。

ずいぶん昔のことのような気がする。それはそうだろう。もう20年にもなるのだ。

そこへ、父親が兄や姉それに私の子どもたちとともに訪ねてくれたことがあった。母親はもういなかった。休日の、誰もいない広いひろい事務所のなかを、キャスターのついた椅子を車いす替わりにして、あちらこちら見せてまわった。

そのとき父には近くにあるホテル・オークラの広い部屋に泊まってもらった。馴染みのホテルのKさんが手配してくれた部屋のそのベッドの柔らかさ具合が父はいたく気に入り、同じベッドを手配して広島の自宅に置きたいと言い出したりした。地下の久兵衛という名の寿司屋へ行ったときには、カウンターに並んですわると、手のひらでカウンターを撫でながら、こういう白木のカウンターのある店で寿司を食べたかったんだ、と喜んでくれた。

その父がなくなったのは2010年だから、その何年前のことになるのか。引っ越したのが2004年、母が亡くなったのが2005年である。

「毎晩、ベッドのなかで漱石を読んで、それから目を閉じます。」だったのが、今では毎晩ベッドのなかで目を閉じて漱石の朗読を聴き、に変わっている。なんどもなんども『心』の朗読を聴きながら寝入るのが習慣になっているのだ。夜中に目が覚めると未だスマホの朗読が続いている。つまり一部だけ聞いたところで、知らない間に寝入っているのだ。それが常である。

もちろん、聴いていて気になったところがあれば、灯りを点けて枕元の文庫本を開く。

小説の朗読というのは、本当に良いものだ。知らない間に眠りに落ちている。

『心』だけではない。たとえば荷風の『濹東綺譚』の朗読を神山繁のCDで何十回聴いたことか。これも途中で眠りに入ってしまうのが常だった。CDだから寝ている間に終わっている。谷崎潤一郎の『幇間』もお気に入りだった。

芥川の『或阿呆の一生』も同じことだ。『大道寺信輔の半生』も聴く。最近発見した『芥川龍之介小品集』に出てくる『大川の水』も良い。この二作品、隅田川についての二つの作品の間の22歳と32歳の違いが、芥川の心の変化を表していて、なんとも切ない気分にならずにはいられない。若くして亡くなった芥川ではあるが、大川を懐かしい、月に2,3度は訪れずにはいられないと22歳のときには書いていた。その同じ人が、32歳のときには暗く、薄汚く、どぶ臭い川だったと書くことになる。最後、35歳のときには、「向島の桜は私の目にはぼろのようだった」と言わずにおれなくなってしまう。(『或阿呆の一生』』)

もちろん谷崎の『細雪』も、私が寝入った後にも朗読を続けてくれる常連の一人だ。『細雪』を聞くたびに思う、いったいこの小説で谷崎はなにを描きたかったのか、と。なんど聴いても、その複雑さ、奥行きの深さに幻惑されてしまう。

ヘミングウェイの“Moveable Feast”も子守唄である。殊にScott Fitzegeraldについて書いた“A Matter of measurement”ではいつも笑ってしまう。

日曜日には定例の散歩をする。もう何年になるか。そのときには、最近はやりの、白いうどんの切れっ端しのようなイヤフォンを左右の耳に付けて、まるで若者のように、スタスタと急ぎ足で歩く。前を歩いている若い人と足の動きがどのくらい違うのか。遅くて当然なのでしょうが、気にならずにはいない。

ふと気づく。

江藤淳も芥川も『心』の先生も、みな自殺している。それぞれに理由のあってのことだろうが、私にはよくわからない。そのなかでは江藤淳が一番わかりやすい。

「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。 平成十一年七月二十一日」

江藤淳66歳。処決は『心』の先生の言葉である。私は翌日の朝日新聞の夕刊に出た遺書の写真を、彼が39歳のときに出した『夜の紅茶』(北洋社)という本に挟んでいる。私が22歳のときに求めた本である。池袋の芳林堂だったのは、当時、豊島区の要町に住んでいたからである。

池袋の本屋で買ったのは、そのころ私が豊島区要町に住んでいたからである。「要町マイコーポ」という名のマンションで6階建てなのにエレベータが無かった。しかし、それまで6畳の木賃アパートで便所は共用というところに住んでいた身には、夢に見た宮殿だった。その前は4畳半の、電車の線路間近の木造アパートだったのだ。電車が通るたびに揺れ、ストで電車が動かない日があるとなんとも嬉しかった。

その4畳半で私はやっと東大に合格したのだった。

江藤淳が子どもから青年になる時代に住んでいた十条について、勝木庸介氏の『出発の周辺』について触れながら書いている。「『出発の周辺』をはじめて読んだとき、私はある名伏しがたいなつかしさと胸のときめきを感じて、われながらおどろいたことがある。」(『場所と私』188頁 『夜の紅茶』所収)

江藤淳は十条を描いたと言う勝木庸介氏に問う。「十条のどこですか。僕は十条仲原三ノ一の帝銀社宅、のちの三井銀行社宅に七年間住んでいたんですけれども」

江藤淳にとって「十条の『帝銀社宅』での七年間」は「『穢土』と感じられる」と書かないではいられない時期だった。(190頁)

加藤周一は青年時代の目黒区宮前の家の道について、どぶと蚊柱とぬかるみと夜になんどか水溜まりに踏み込まずには通ることができないと嘆き、「私はわが家の窮状を思う度に、この宮前町のどぶ川のほとりから脱出することができるとすれば、それは私自身の独力でするほかはなかろうと考えていた。」と書いている。(『羊の歌』 著作集14巻225頁)

昭和40年代に地方の高校から東京の大学に来た人間は、人生に余分のハンディを背負う。両親の家にずっと住んでいられる大学生と地方から出てきて新たにアパート暮らしをしなければならない大学生との差である。

要町のマンションに移って、家賃は月2万9千円と一挙に3.4倍になった。それが叶ったのは、父親が自分の会社を持つようになったからである。その過程で獅子奮迅の働きをした息子のわがままを父親は寛大に見守ってくれたということであった。

6畳の和室に2畳の板張りのキッチンと小さな玄関、そして1畳足らずのバストイレの一体型で、はなはだ見晴らしがよく、夏の夕方になると遠く池袋の西口にある東武デパートの屋上ビヤガーデンからの音楽がとぎれとぎれに流れてきた。隣のユニットの水洗便所の水を流した後に停まるときの瞬間的な機械音をのぞけば、そこは静寂の空間だった。私が夢に見た宮殿と思い出す所以である。

広島の実家を出て以来、私は住む場所に苦労と悩みを抱えてばかりいた。

「そんな僅かな金で高望みしても、そいつは無理ってものだよ」と、何軒も回った街の不動産屋さんの一人は、やさしく諭してくれた。しかし、東大に合格しなくてはならない、そのためには今の相部屋の浪人寮にいるわけには行かない、と言って父親を説得した身には、それ以上を望むことは叶うはずもなかった。

6畳の木賃アパートで、私は上の階の人がテレビだったかを大きな音でかけていたのに苦情を言いに行ったことがある。「済みません、音量を小さくしていただけませんか」と頼んだ大学生に、相手の青年は「なにを言っているんだ」と取り付く島もなかった。当然のことだろう。私もそれで事態が変わると思っての事ではなかった。

だから雨の日は嬉しかった。雨戸を閉め、読書に精を出す。

ときどき隣の睦言が聞こえてくることもあった。隣にはNという若い夫婦が小さな「はやと」君という名の子どもと3人で住んでいた。壁一枚向こうには、その家族の生活があった。

要町のマンションに移ってからは、音で悩むことはほとんど無くなった。夜中、真っ暗な部屋に、司法試験の勉強のための合宿から独り帰ってきたことを思いだす。法律相談所と言うサークルの有志10数人と夏の戸隠高原に行ってきたのだった。

さすがにもう遠いとおい日の思い出でしかない。今だけでも十分に忙しいのだ。懐旧の情に浸っている心の余裕はない。

それでも、石原裕次郎の歌う「粋な別れ」をラジオで聴いて素敵だと思い、LPのアルバムを買ったのもあそこでのことだったと覚えている。広島から手に持ってきたワインレッドの7インチのソニー製白黒テレビで『氾濫』という映画を観た。自分は畳に寝そべりテレビを横にしてみた。それから伊藤整を何冊も読んだのだった。

私はその住居のベランダから地面を見下ろし、雨が下へ落ちてゆくものだと感得した。

何年住んでいたのか。私はそこで司法試験の勉強をし、司法試験を受け、落ち、再度受け、合格した。合格発表は私の25歳の誕生日だった。

そうなると、そこから引っ越した先は横浜市瀬谷区の友人の一戸建てだったことになる。故郷熊本で実務修習を受ける友人が、その間、親切にも貸してくれたのである。

豊臣秀吉の辞世の歌、「露と起き 露と消えにしわが命 なにわのことも夢のまた夢」を思うことがある。

太閤秀吉にしてこれ。人の生とはそういうものなのだろう。

私でも、このまま死んでしまうのではなんのために生きてきたのか分からない、と嘆きたい気持ちになることもある。しかし、たぶん、このまま死んでしまうのだろう。平穏に死ねればそれが一番よいと諦念に包まれることもある。

最近『村松剛』(神谷光信 法政大学出版局刊)という本を拾い読みした。村松剛が「死はこわくないが、歴史に残る仕事をしなかったのが残念だ」と病床で言った(400頁)とあった。へえ、そういう人もいるのか、そいつは残念なことだったろうな、気の毒に、と単純に思った。それにしても「歴史に残る仕事」というのはどんな仕事なのだろうか。

73歳というのは中途半端な歳だ。未だ10年は元気でいるかもしれない。いや、もう1、2年かもしれない。定期に健康診断を受けているのは、なんのためなのだろう。

基本はもっと生きるためなのだろう。いや、苦しまないで死ぬことができるようにということかもしれない。しかし、いくら健康診断で病気が早期に発見され、治療が可能だったからといっても、いずれ来るものは来る。それまでの悪足掻きか。

ごく最近の読売新聞には、男性の健康寿命が平均72.68歳と出ていた。

どうして本を読むのだろう。受験は終わったのだ、もう勉強する必要はないのだ。

それなのに、本を読む。必死になって読む。仕事に関係なくても読む。大量に、いろいろな分野の本を読む。

愉しみ?

そうかもしれない。

誰にとっても、ピンピンコロリが理想なのだろう。つまり突然の死ということになる。

そうだろうか?自分はどうやら死んでいくらしいな、と思いながら死ぬ方がよいのではないか。石原慎太郎さんの死はそうだった。そういえば、石原さんは執拗に身体をさいなむ痛みについては書いていない。

私は、石原さんが賀屋興宣の語りをそのまま採った「死ぬと、独りきりでとぼとぼと歩いてゆく。そのうちみんなに忘れられてしまう。それどころか、自分で自分を忘れてしまう。」ということになりそうな気がしない。

人は死ねば、一部の近親者を除いて、ゴミになる。人生最後の光景は、見ても、どこにも納めることなどできはしない。

それでも、書いたものは残る。残ると思いながら死ぬことができる。それが文章を書く人間の特権だろう。もっとも、多くは日記と同じで、誰も思い出しも読み返しもしないのだが。

私が江藤淳の文章を読むように、漱石の小説を聴くように、誰かが、意識してくれるかもしれないという期待。それは虚しき思いか。つまるところ、石原さんの『太陽の季節』が今後も何人かに読まれることと石原さんの人生は何の関係もないのではないか。石原さんは死んだ。それで終わりだ。

いや、例えばこの私が彼の書いたものを読んで考えること。そういうことが起きている。それが石原さんの人生の意味を将来形で、決める。作家は棺を覆ってもその人生は定まらない。

石原さんについて『我が師石原慎太郎』という本を書いて出したのを、旧知の東急の社長をしていらした上條清文さんが読んでくださり、わざわざ予め電話をくださって日時を約束し、私の事務所までお出かけくださった。

松竹の社外役員を同時にしていたことがあったのだ。ご発言はいつも含蓄に富んでいた。

「私は五島昇の秘書をしていましたのでね、石原さんとはご縁があったんですよ。」と87歳の上條さんは目を細めて、懐かしい昔を話してくださった。

石原さんが岡本太郎デザインの椅子について、こんな頼みをしたということだった。

「あれは、どこかにしまい込んでしまっていいものではない。多くの人々に座ってもらうのが一番だ。できれば東急の渋谷駅が新しくなっているから、そこで人のたくさん歩くところに置いてほしい。」

あの椅子だ。

5月に出した『我が師石原慎太郎』(幻冬舎)の79頁に石原さんご自身が座った写真が出ている。赤い方の椅子である。

「会場の前に、岡本太郎デザインの椅子が二脚、赤と白、が置かれている。ご自宅に置かれていた椅子で、石原さんご自身が座っている写真を見たことがある。お釈迦様が片手をすぼめて差し出したようなその手のひらに、すっぽりとお尻がはまり、右腕を椅子の親指の部分、背中をその他の四本の指の部分にゆだねるような格好をしている。」と、石原さんの写真の右頁に私は書いている。2022年6月9日の石原さんのお別れの会の時の光景だ。場所は東急の渋谷セルリアンタワーの地下2階。

「ああ、あれだ、とすぐにわかった。で、石原さんが座っていたように座ってみようかと誘惑された。どこにも、腰かけないようにという指示はない。しかし、たくさんの人がいる。私が座れば、何人もが座るかもしれない。傷つけてしまっては申し訳ないという思いが、しばし眺めるだけに留まらせた。」と、その日のセンチメンタルな思いを綴っている。

実は、石原さんはたくさんの人が座ってくれるようにと思っていたのだ。だから、私が「誘惑された」のも故なしにあらずということだろう。石原さんの心は広く、大きい。

こんなことが、本を書いていると起きることがある。生きているのは良いものだ。

▲写真 1980年代の東京・銀座(1986年頃)出典:Photo by © Viviane Moos/CORBIS/Corbis via Getty Images

『明治の日本、戦後高度成長の日本』

【まとめ】

・73歳の私は肉体は弛んでいても、心は少しも変わらず若いままだ。

・鴎外は、後の世のためにできることに残り少ない命を燃やし尽くさずにおれなかった。

・外車、飛行機、フルーツパフェ、高度成長は10歳の私にも感じられた。

「南山の戦いを終え二十年前のベルリン時代を想う鷗外の感慨」は、私のものでもあります。」

ほう、13年前、私はそんなことを考えていたのか。

しかし、南山の戦いを終えた鷗外はまだ42歳に過ぎない。いまの時代なら青年に近いであろう。なぜ「老いにけん」なのだろう。いくらなんでも、あの鷗外にして少し過剰にセンチメンタルではないかと思ってしまう。

ところが、調べてみるとどうやら急速な平均余命の伸長があったようなのだ。鷗外の時代の42歳は今の70歳に近いのではないか。

だとすれば、鷗外にしてみれば、恋愛の対象だった女性ももう60歳を過ぎてしまったとの感覚があってのことだったのだ。それを「老い」と呼ぶのは、当時の鷗外にとっての率直な感想だったのだろう。年齢が恋愛の可能性の基準だからであろう。その意味で42歳の鷗外は老人である。

鷗外のベルリン時代は、若い俊才が「昼は講堂や Laboratorium(ラボラトリウム) で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、癡重(ちちよう)といふやうな処のある欧羅巴(ヨオロツパ)人を凌(しの)いで軽捷(けいせふ)に立ち働いて得意がるやうな心も起る。」そんな生活をしていた。(『妄想』)

その青年が20年後にブロンド髪の恋人を思い出し、「こがね髪 ゆらぎし少女 はや老いにけん」と詠う。何年経っても世間の興味はこの恋愛事件にある。鷗外の留学中の、そしてこがね髪の女性が東京にまで訪ねてきたという一大恋愛事件にある。鷗外が書いた小説『舞姫』のエリスがその相手に違いない、どんな女性なのか、ということの探求にたくさんの人々が本を著し、テレビ番組にまでなった。こがね髪ではない写真を掲載している本もある。

鷗外はただの小説家ではない。漱石と並ぶ明治期最高の作家の双璧のひとりであり、かつ、漱石にはなかった官位までがある。軍医総監だったのである。三島由紀夫があのまま大蔵省に勤めていて大蔵次官、いまでいう財務次官あるいは財務官になったようなものであろうか。俗世間では軍医総監が重要である。そういう高位高官が小説も書くから鷗外は別格なのである。今の時代のサラリーマンから見て、特別の「二足の草鞋」の人なのである。

日銀の理事にまでなった吉野俊彦氏がライフワークとして鷗外研究に余念がなかった。私もずいぶんたくさんの吉野さんの鷗外ものを読ませていただいた。その二足の草鞋ぶりがサラリーマンの憧れの星だということを吉野さんは書いていた。最後には、吉野さん自身がサラリーマンの憧れの的になった観があった。彼もまた二足の草鞋の人であったからである。

それにしても、なぜエリスなのだろう。

恋愛は、職業を問わず誰もがするからだろう。庶民もエリ―トも、若いころは異性に惹かれる。人の常の情である。なかには同性に惹かれる人もある。若くなくなっても、異性に惹かれる気持ちが消えない人もある。私の文学の師である石原慎太郎さんは、なんどもなんども、「牛島さん、この世には男と女しかいないんだよ。人の世ではそれが一番重要なんだよ」と私を諭してくれた。「みんな恋愛小説を読みたいんだ」とも言われた。今にして、なるほどそうなのだろうと思う。

あの、石原さんが72歳で書いた『火の島』という恋愛小説の男性主人公、浅沼英造は、3,40代くらいだろうか。2000年の三宅島噴火のときに中学生で、ヒロインの礼子は小学生だから、20年後は未だ30代ということになる。心中してしまうのは可哀そうな気もするが、人と生まれて、それ以上の最高の死はないようにも思う。英造にナイフを胸に突き立てられ、何十メートルの崖を強く抱きしめられたまま落下する。礼子はなにを想い、感じたろうか。英造は?

分かる。この愛している女の全てに自分が責任を負い、それを落下しながら礼子を抱きしめた両腕にいっそう力を籠めることによって全うしつつあるという充実感。それ以上の人生があるとは思えない。

60歳になったからといって、この私には何の感慨も無かった。事務所の後輩弁護士たちが個人的にお金を出し合って素敵な黒革の手袋をくれた。還暦のお祝いということだったのだろう。単純に嬉しかった。

しかし、だからといって私は自分が年取ったという思いは少しも抱かなかった。60歳は50歳と変わらず、50歳は40歳と同じで、40歳といえば未だ独立して数年でしかなかった年齢に過ぎなかったのだ。もう人生もそれなりに時間が経ったな、などという思いなど遥かに遠い、無縁のものでしかなかった。確かに53歳のときに胆石の手術をした。だが、それはつかの間の休息の時ですらなかった。必要な一時的修理。それだけのことに過ぎなかった。身体が元気だったのだ。衰え?どこにも、無かった。

それが、さらに13年経って73歳になってから、こうした昔の年賀状を巡っての文章を綴るなどとは予想していなかった。もう何冊かの小説やエッセイ集を出していた。しかし、回想には無縁だった。

56歳の鷗外は書いている。

「老は漸く身に迫ってくる。

前途に希望の光が薄らぐと共に、自ずから背後の影を顧みるのは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る。」(『なかじきり』)

56歳の鷗外は73歳の私よりも老いを意識していたに違いない。しかし、その短い文章の最後に鷗外が掲げたのは「顧炎武は嘗て牌を懸けて應酬文字を拒絶した。此『なかじきり』も亦顧家懸牌の類である。」と結んでいる。

鷗外が文章の応酬を拒んだのには理由があった。では、鷗外は残りの4年間になにをしたか。

『帝諡(し)考』と『元号考』の執筆である。後者は生前には完成していない。もちろん読者はいない、ほとんどいない。そんなことは、眦(まなじり)を決した鷗外にとって視野の外だったのである。元号について鷗外が、大正というのは止という字が入っていて良くないと書いていると読んだことがある。また、明治というのは昔の大理の国で使われた年号であるとも述べているとのことである。どちらも猪瀬直樹さんの本『公』という本に出ていることである。

そんなことに鷗外は残りの全てを費やしたのである。後の世のために自分ができること、自分しかできないことに残り少ない命を燃やし尽くさずにおれなかったのだろう。さればこその應酬拒絶である。

もっとも帝室博物館長などの公職は離れることがなかった。そのせいで寿命を縮めたということもあったのだろう。奈良での正倉院御物の開封に立ち会ったり、イギリス皇太子)の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の出張をしたりもしている。死の2か月前のことである。イギリス皇太子とは、のちに王冠を賭けた恋で名を馳せたエドワード8世である。

私の60歳での感慨の無さの理由は、今にして思えば、若かった自分がいて、次々と大きな仕事が舞い込んできて、それを何人もの弁護士チームで巧妙に処理し、少なくない報酬を戴く。その目くるめくような躍動の日々の連続だったからだろう。

実は、それは今も変わっていない。確かに老人になってはいるはずなのだが、また、外見だけからでもその事実は、もはやまごう方もない。しかし、心は変わらないのだ。

私の祖母は75歳年上だった。若いころには色白で豊満な肉体の持ち主だったとおぼしき身体で、子どもの私を風呂にいれてくれながら、自分の二の腕の皮膚の垂れ下がったことを嘆き、「昔はこんなじゃなかった」といつも嘆いていた。さらに、十代の夏、周囲に誰もいないのを見定めて全裸の身体に泥を塗りつけ、バチャーンと川に飛び込んで遊んだものだったと話してくれたこともあった。

聞いていて私は不思議な気がした。この、どうみても80歳を超えた老女でしかない祖母にそんな時代があったと想像できなかったからである。今は、わかる。私がそうなっているからだ。肉体は弛んでいても心は少しも変わらない、若いままなのだ。

祖母は浄土真宗の信者だった。若いころ子供を二人、火事で亡くし信仰をもつようになったと聞いていた。その後に女の子と男の子を儲けた。そのうちの男の子が私の父親である。1915年、大正3年に生まれている。

そうした経緯があってか、祖母の「お寺さん参り」は真剣で、私は子どものころ何度も祖母の手を引いてお寺に通った。父親の転勤に伴って、東京、広島とでそれぞれ決まった寺があったようだった。文字通りの「貧者の一灯」も欠かさなかった。そのためにこそ、我が子、私の父親からもらう僅かな小遣いを貯めていたのかと、今回初めて考えて見た。改めて強く思う、そうした小さな額のお金の積み重なりが、大寺院の伽藍を可能にするのだ、と。貧者の一灯こそが真実なのだと私は自らの経験で知っている。

娘、つまり私の伯母は日蓮宗だったようで、祖母は「あれは法華だもんね」と言って、それが気に入らないことを隠さなかった。伯母は伯母なりに信仰の道に入る理由があったのだろうが、それは聞いていない。子どもの私には、なにが違うのか少しも分からなかった。

父親は、総じて親孝行な息子だった。祖母の唯一の不満が、嫁の手から小遣いをもらうことだったようで、それが最終的にどう解決されたのか私は知らない。父親は父親なりに、家政は妻に全面的に任せるべきだという信念のようなものがあったのだ。

その私の両親が力と心を合わせて成し遂げようとした一大計画が、次男を東大に入れるという事業だった。次男、すなわち私は学業のデキがよく、祖母はいつも弘法大師の生まれ返りではないかと評していた。祖母の目にはそう見えたのかもしれない。

その計画は、いつ、どのように始まったのだろうか。

おそらく幼稚園に通っていたころ、私の面倒を見ていた母親がどうやら次男は学業成績がとても優れた子どもになると発見し、夫に話したのだろう。

それが本格化したのは、一家が父親の転勤に伴って広島に引っ越した後のことだった。小学校5年生だった頃の私は、それほど受験の圧力を感じていなかった。広島には東大に入る生徒の数が多い高等学校が3つあり、広島大学附属、広島学院、そして修道であり、どれも中学からの入学がふつうのこととされていた。そのために私は越境入学して市内の中心にある幟町小学校に転入した。

私自身も、自分がどうやら学校の成績が良いこと、このまま伸びれば東大に入ることも可能な子どもなのだという気がしていた。

それにしても、広島県自体が勉強熱心な地域だったのだと思う。その広島県に一家が移転したのが昭和35年のことだ。高度成長が緒に就いたころである。それは因果がつながっていて、そもそも父親が広島に転勤することになったこと自体が、日本の高度成長を反映していたのだ。

広島には父親の勤務していた重電会社の製造する発電用のタービンを買う得意先、中国電力があり、そこでその重電会社は広島営業所を新設し、さらに接待用に料亭のような施設を設けた。水明荘という名の太田川に面した瀟洒な飲食施設だった。よく麻雀大会が開かれていたようだった。施設だけではない。広島支店長はなんと外車に乗っていた。ダッジという名のアメリカ製で水色の巨大な車で、後部のデザインが高く跳ね上がっていて、イルカのフィンを思わせる車だった。加藤周一が「飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」と貧窮問答歌を引用してアメリカの車の無用な豪華さを皮肉っている、あれである。

私は、父親が総務で所管だったせいか、なんども乗せてもらった。それまで東京の豊島区で社宅の4階建て鉄筋アパ―トに暮らし、せいぜいが親戚のお兄さんがドライバーをしている木場の金持ちの国産の社用車にときどき乗せてもらっていた程度の身には、夢のような世界が突然現れた思いだった。高度成長とは、小学校5年生の子どもにとってそういう時代として目の前に出現したのである。

今思い出しても不思議なのは、広島の幟町小学校と言う、中心部にある小学校への初登校日、くだんの水色のダッジに乗って行ったことである。父親は公私混同を嫌う実直な人間だったから、おそらく、賢い広島支店長の差配だったのかと思う。

そういえば、私が初めて羽田に行ったのも、父親が飛行機に乗って東京に帰ってくるので迎えに行くためだった。兄と二人ででかけた。

わざわざ高級な革靴を履いていったせいで足が滑り、危ういところを兄が支えてくれたのを覚えている。兄は16歳だった。飛行機に乗って帰ったのも、くだんの広島の支店長が父親が年末も顧みず良く働いてくれるからと、せめて正月前に急いで家族のもとへ帰れるようにとの配慮だったと聞いた。

おそらく、電力会社への売り込みが順調で、広島支店長の裁量の枠も広かったのではないかと想像する。

高度成長とはそういうことをも意味したのである。

その重電会社は家電も売っていた。そこで、なんと東京でいえば銀座4丁目の交差点の一角に相当する紙屋町の交差点に面した第一生命ビルを借り、そこにファミリーセンターという名を付した家電製品の顧客用の施設も開いていた。父親が単身赴任で下宿していた家のお嬢さんで私のピアノの先生でもあった女性がそこで働いていた。私は彼女にフルーツパフェというものを生まれて初めて食べさせてもらったのを覚えている。

10歳の私である。

私は今でもフルーツパフェを好んで食べる。銀座4丁目の交差点にある和光の喫茶部でメロン・パフェを食べるのである。夏場だけと季節が限られてはいるが、年に一度だけという年はいちどもない。メロンとココナッツの相性がなんとも美味なのである。

▲写真 イメージ 出典:Photo by Rus32/Getty Images

「紅茶と結石と年賀状」

【まとめ】

・尿路結石で4日間入院した。

・紅茶が結石の原因になると知り、以来、紅茶を飲んでも愉しむことはなくなった。人生の伴侶が失われたも同然だった。

・ ほんのつかの間にせよ悦びというものは人生に数少ない。

尿路結石で4日間、順天堂大学付属病院に入院した。

左の腎臓に結石ができていることは定期健康診断で何年も前に知らされていた。それがこの4月の定期健診で尿路に降りてきていると判明したのである。腎臓を離れてしまった以上、いつ激痛が走ってもおかしくないと主治医に宣告されてしまった。

もともと、腎臓に石ができた原因には思いあたるところがあった。紅茶である。

「紅茶にはシュウ酸が含まれていて、それが体内のカルシウムと結合して石になります。」と、腎臓の石を発見したときに、ことも無げに主治医が説明してくれたのだ。シュウ酸とは食べ物のアクの素になっている物質で、カルシウムと結合してシュウ酸カルシウムになる。一見するだけでも恐ろしい、まるで縫い針のような針状の結晶の画像入りの説明がネットにあった。それが尿路結石の元である。ほうれん草に多く含まれていて、だからほうれん草は食べる前に下茹でをするのだという。知らなかった。ただしんなりとさせるためだとしか思わないでいた。もちろん、紅茶にもシュウ酸が含まれているから問題なのである。

「それなら思い当たりますよ。ひところは一日に10杯以上紅茶をのみつづけていていましたから。それも、ストレートばかりで!」

私の自己分析に主治医は納得した様子だった。

ただし、こう付け加えることを忘れなかった。

「このままの状態で石が腎臓にある間は大丈夫です。でも、それが落ちてくると尿路につまることがあります。するとひどく痛くなることがあります。七転八倒という言葉そのままの痛みのこともあります。体外に排出される際には、いずれにしてもひどく痛むことがあります」という、はなはだ有難くない診断を頂戴したのだ。主治医はさらに、「紅茶を飲むのでしたら、ミルクティーにしてくださいね。それなら、身体のなかのカルシウムと結合する前に、カップのなかで紅茶のシュウ酸とミルクのカルシウムが結合してくれますから。」と続けた。

決定的な宣告だった。私はストレート・ティーと涙ながらのお別れをして、ミルクティーに宗旨替えをした。しかし、それはほとんど紅茶を愉しむ時間を喪失したに近いものだった。以来、私は紅茶を飲みはしても愉しむことはなくなってしまった。人生の伴侶が失われたも同然だった。

紅茶の飲み過ぎ。思いだしてみれば何の不思議もない。かつて、毎日10杯以上の紅茶を飲んでいた日々が確かに存在していた。江藤淳の『夜の紅茶』を読んで以来の紅茶好きである。1972年に出たその本にあった『夜の紅茶』というエッセイに惹かれて以来の喫茶の習慣だから、22歳の時からということになる。この本のことは平成28年の年賀状で触れている。65歳の私が書いた年賀状である。それによれば、8年前、私はストレートの紅茶を愛飲していたということのようだ。なぜなら、翌年の年賀状には、紅茶について「二口目からは牛乳を入れるようになりました。腎結石ができないようにです。」と書いてあるからだ。「もはや、あのストレートティーの香りを満喫することはありません。」となんとも恨めし気である。そういえば、或る会社の社外監査役をしていたときのこと、会議が一段落するとコーヒーを出して下さるのだが、その時に牛乳を付けてくださるように社長室の女性にお願いしたことがあった。お願いをしたのはきっとこのころのことなのだろう。あの、植物性の牛乳もどきではダメだと主治医に聞いていたからである。

そうやって7年間、私なりに気をつけていたのだが腎臓の結石は少しずつ本人の意図に反して直径6.7ミリになるほどたくましく成長し、7年も経って生まれ故郷の腎臓に別れを告げて独り旅立ち、この4月、めでたく尿路に落ちてきたということである。

たまたま書いてきた年賀状の記載から、いつ腎臓に結石があるとわかったのかをはっきりと知ることができたということである。私は、医師に注意されてからは直ちに注意深く暮らしてきたのである。だが、我が身には我が心の思いは通じなかったということである。

思えばなんとも長い間紅茶を愛飲していたことになる。もっとも日に10杯というのは10年ほど前からのことであろうか。

もちろんストレートのみであった。紅茶は香りが命で、その命はミルクと共には存在し得ない。淹れたての紅茶から立ち上る香りは、書類を読んでいる私を、一瞬の間、別の世界に連れて行ってくれる。飲むたびにそう感じていた。

私はアール・グレイを最も好んだ。愛飲したグレイ伯爵の名にちなんだという、ベルガモットという果実の香りをつけた紅茶である。しかし、私は季節々々のダージリンのファーストフラッシュやセカンドフラッシュの香りもこよなく愛していた。

私の仕事の相当部分は机に向かって書類を読むことである。最近ではパソコンに向かって、ということになる。だから、紅茶はいつも仕事の友であり、短い休息のパートナーである。砂糖もミルクも入れないから、これほど単純で気のおけない連れ合いはなかった。

昔、男性専用のプライベート・クラブに集ったイギリスの紳士たちは、紅茶の葉ではなく、紅茶に添えて入れる砂糖の産地と年代を気にしたという。洗練の極、というのはそういうことなのだろう。イギリスの産業革命の時代に、農民から産業労働者になろうとしていた人々に、朝ごはん代わりに砂糖を入れた紅茶を飲ませることで時間の観念を植え付けようとしたとも読んだことがある。

そう考えてみれば、私も似たようなものだったのかもしれない。秘書が持ってきてくれる紅茶を前に、たくさんの書類の置かれた机の上を片付けて皿の上に乗ったティーカップのためのスペースを確保するほんの少しの手間。その間は指先ではなく腕全体が動き、頭が休まる。

私はティーバッグを忌み嫌っていた。紅茶は茶葉で淹れなくてはならない。その茶葉も、銀座5丁目のリーフルダージリンハウスで購入した茶葉でなければならない。あそこの茶葉を使うようになってから紅茶を飲む悦びが深まり、したがって頻度が飛躍的に増えた気がする。

ウィークデーのワーキングアワーは秘書が淹れてくれる。休みと夜は自分で淹れる。深夜、本を読み疲れ、あるいは根をつめて原稿を書いたあげくのぼんやりとした頭に、自分でお湯を沸かして淹れる紅茶ほど人生の愉悦を感じさせてくれるものはない。それが瞬く間に消え去る悦びでしかないことは、人生に限りがあるのと同じ類であろう。ほんのつかの間にせよ悦びなどというものは人生に数少ないのだ。

ともあれ、定期的に受けている健康診断のおかげで石が腎臓を離れて尿路に落ちて行ってしまったとわかった。大き+さも7ミリくらいとまで計測できている。あれもこれも現代医学の成果である。

迷いはない。石を取り去るしかない。

方法は二つ。衝撃波で砕くか、レーザースコープを尿道から入れてレーザー光で砕くか。

もちろん、衝撃波を選んだ。それであれば1泊の入院で済むうえ、全身麻酔は不要だとのことだったからだ。

「でも、牛島さんは腰のあたりの脂肪の厚みが10センチあるのが気になります。9センチだと大丈夫なんですが。衝撃波は外側から電磁波を加えるので、体についた脂肪が衝撃を弱めてしまうことがあるんですよ。」

説明してくれた磯谷准教授は、200例以上の経験を有している方だ。7割がたはうまく砕けるのだがと言いつつ、3割の可能性に触れることを忘れなかった。

それでも私は迷わなかった。

5月9日に入院し、翌日に衝撃波を加えた。事前に左右を間違わないようにと、左腰に青色のマジックインキで素肌に大きく二重丸が描かれ、まるで漫画のような滑稽な印象を与える。

台の一部、腰の部分が動くようになった手術台の上に乗る。いざ位置を決める段になって、右、左、少し上、いや少し下と指示が出る。そのたびに言われたとおりに身体を動かす。ちょっとしたモルモット気分である。私というのは、案外これで従順な人間なんだなと自分のことを思い直す。

上から当てられた衝撃波なるものは少しも身体に衝撃を与えない。ただ、皮膚の表面でバチバチと音がし、なにやら電気がはじける感触があるだけだ。もちろん、全身麻酔ではなく、鎮静効果のある薬を点滴で入れているに過ぎない。言葉での医師とのやり取りも不自由はない。

30分か40分。

終わって、レントゲンとCTで確認する。どうも砕けていないようだ。7割のうちの3割の目が出てしまったようだった。脂肪の1センチの差のせいかもしれない。

翌朝の退院までには、次はレーザーで砕く作業をすることになっていた。日取りも決まった。

私は、予定どおり退院し、その日の11時半に約束してあったランチの場所に向かったのだった。

7月12日の入院、13日の手術と決まっていた。が、私は石が自然排出されることを毎日祈っていた。もちろんそうなれば一挙に手術の必要がなくなるからである。入院は嫌である。全身麻酔は嫌である。

指定された薬を連日呑む。尿路に留まっている石が排出される作用を手助けする効能のある薬である。それらを毎食後3種、それに朝食後だけはもう一種加えて同じ作用の薬を呑む。自分の身体のためである。医師に指示されたことには完璧に従う。二、三の例外を除き、私は忠実に処方どおり服用を続けた。

手術までの2か月、私には不安があった。

いつ痛みが走るか分からないという不安である。痛みは、生じれば七転八倒するほどになっても不思議はないとなんども言われていた。たまたま6月に大学の同窓会があり、その場に尿路結石を患った同級生がいて自分の体験を話してくれた。「ありゃ、どえりゃあ痛いぞ」という彼の言葉に、なんとも真実味があった。

それでも、私は手術の日までに石が自然に排出されることを夢見ていた。出れば、手術はしなくて済むのである。

手術の終わった今となってみると、私は実は自分がとても幸運だったのだとしみじみ思っている。

自然に排出されたとする。そのときには転げまわるほどの痛みがあったかもしれない。排出されなかったのだから、それは経験しないで済んだ。

衝撃波で破砕できたとする。そのときには、割れた石の尖った部分が排出されるに際して痛みを伴うことがあるという。それでも、衝撃波での処置を望んだのは私である。いまから思えば冷や汗ものだったのかもしれない。

レーザーを用いた手術であれば、衝撃波と違って粉砕することができ、そのうえ、砕かれた石を別のネットで取り出すという手順も踏むことができた。

なんという医術の進歩であることか。「自然科学のなかでも最もexactな医学」という鷗外の言葉を思い出す。

7月13日午後2時ころ、私は全身麻酔を受けるべく手術台に仰向けに横になっていた。目を開くと手術用の無影灯とよばれるたくさんのライトの集まった傘のような、少し黄緑がかった照明器が視野に入る。

「ああ、この光景がこの世の見納めというわけか」

という思いがふっと頭をよぎる。手術自体は、先ず命の危険があるようなものではないと聞いていた。しかし、全身麻酔は一定の危険がある。どんなに低くとも麻酔状態のまま目が覚めないということはあり得ることなのだ。麻酔なしでの手術などは考えることもできないから、これはしかたのないリスクなのだろうが、今回のこの一回がたまたまそれにあたるということはあり得ないことではない。

見納めか、と思った私は、次に「見納めといってみても、死んでしまったら見たものを納めていたところもなくなってしまうんだがな」と考えた。そこまでだった。

次の瞬間は、同じ手術用の無影灯の眺めだった。

「無事終わりました」と磯谷先生に告げられたような気がする。未だ麻酔が覚めていない状態である。

左右の腕に蕁麻疹のような浮腫(むく)みができ、少し痒かった。

磯谷先生が麻酔科の西村先生らと相談し、追加の点滴役が加えられた。しばらくして浮腫みは消えた。

カーテンで仕切られた小さな部屋に移って、回復を待った時間はどのくらいだったのだろうか。前回の手術のときに感じた、暗い空間のなかで、喉が渇いているのに水が飲めず、眠ることも叶わないという底なし沼に引き込まれつつあるような深甚な恐怖感は無かった。あらかじめ磯谷先生に詳しくそのときの状態と恐怖についてお知らせしていたおかげに違いなかった。

ただ、強い尿意があるのに排泄できないという苦しさがあった。磯谷先生に訴えると、尿道カテーテルを入れてくれた。しかし、その挿入がまた痛く、かつ横になったままでは容易には排尿できるものではない。私は中学1年生の夏の臨海学校を思い出した。遠泳の途中に尿意を覚えたらそのまま泳ぎながら出せ、と予め教えられていた。強い尿意を覚えた私はなんども教えられたとおりにしようと頑張った。しかし、できなかった。半ば泣きながら伴走していた船の舷側に片手で掴まり、私はやっと用足しをして隊列に戻った。61年前のことである。

結局、そのままの状態で、ベッドに横になって廊下の天井を眺めつつ自分の病室に連れて戻ってもらい、元のベッドに移してもらった。

術後初めての排尿は、「イテテ」と叫ぶほど痛かった。血が混じってもいた。後日、前立腺の手術をしたことのある友人に痛かったことを話したら、「『イテテ』で良かったね。僕のは『イデデ』だったよ」と慰められた。

しばらくお世話になったのは、尿漏れパッドである。

昔、赤ん坊用のダイパーの特許の紛争を扱ったことがあった。その会社が、実は売り上げの相当部分が大人用なのだと聞いて、なるほどと思ったことであった。液体を吸ってくれる高分子化合物の力。化学の成果である。

そのおかげで、一見ふだんと変わらない生活が可能になる。こうした高分子が発明される前にはどんな措置が講じられていたのか。想像はつく。どんなにか不便で不快であったことか。

しかし、ことは高分子の効用どころではない。

もし江戸時代に腎結石ができていれば、結局はあえないことになってしまったことだろう。昔、NHKの大河ドラマで西田敏行の演じる徳川吉宗が「小便が出んようになってしもうた」と述懐する場面があった。徳川幕府八代将軍にして、そういうことだったのである。21世紀を生きている私は、そのことだけでもなんと有難い目に逢っていることか。

すべて医学の力である。医師と看護師、そして病院の掃除をしてくれる人、食事を作ってくれる人、事務を処理してくれる方々。

その前提にあるのが、医療器具を作る人々であり、その材料を作る人々であり、さらに、石油を掘り、運び、鉄鉱石を採取し、製鉄をし、と限りのないチェーンあっての、今回の私の手術だったのだ。

広い世界があって、この病院があり、そこでの手術がある。麻酔のためにいったいどれほどの人々が何世紀にもわたって研究と実験を重ねたことか。

感謝。なにものかへの感謝。すべてへの感謝。

予定よりも早く、私の体内に収められていたカテーテルが抜けることになった。

せっかく結石を取り去っても尿路が閉鎖してしまっては大変なことになるので、3ミリほどの太さのカテーテルを体内に残してあったのだ。それが自分から「もう外に出たい、出たい」と動き始め、少し頭の先が体外から見える状態になってきた。私は慌てて磯谷先生に連絡し、夕方、ご指示どおり救急外来に行き、ほんの10秒で抜いていただいた。それがすべての終わりだった。7月28日午後6時ごろである。本来は7月31日を予定していた。

カテーテルを抜いてもらった日の午後7時ごろ、私は病院付属の山のホテルのレストランで夕食を摂っていた。ノンアルコールのビールを頼んだ。窓の外には、何日か前、あの焼けつくような日差しのなかを歩いた玄関前の風景が広がっている。あの時には、ほんの50メートルほど歩いただけだったが、頭も体も脚も足も太陽に焦がされるようだった。

おなじような暑い一日が目の前で暮れはじめ、みるみる黄昏時になってゆく。大地は生きていると実感する。その光景の移り変わりに、私はなにものかに深く感謝し、自分は自分の小さな一部署としてこの世に与えられたところで一生懸命できることをやろう、世界中でだれもが同じことをやっているに違いないのだ、私は私の果たすべき使命を果たそう、そう心に誓った。

トップ写真:故・石原慎太郎氏(2007年4月5日 東京)出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images

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