《戦後78年》茨城・水戸空襲を経験・田添さん 相互理解、大切な営み #戦争の記憶

水戸空襲当時を振り返る田添洋子さん=水戸市八幡町

■軍国少女から英語教員へ

中学校で英語を35年間教えた茨城県水戸市八幡町の田添洋子さん(88)は太平洋戦争中、軍国少女として育った。敗戦後に日本が突き進んだ戦争の真相を学び、英語教員の道へ。民主主義実現に沸く1960年代の米国にも刺激を受けた。「平和の考え方や生き方を伝えることが使命だった」と教員生活を振り返り、相互理解の大切さを訴える。

田添さんは10歳だった44年、父の出身地・水戸に家族8人で疎開。五軒国民学校では軍隊式教育に驚きながらも、藤田東湖の「正気の歌」を短期間で暗記すると周囲に褒められ、「軍国少女」として戦時教育を吸収した。

翌45年8月の水戸空襲では、家族で近所の祇園寺裏の山林へ逃げて夜を明かした。疎開先の自宅は焼け残ったが、周囲の建物は焼けて異臭が漂っていた。

戦後に真相が次々と報道されると、誤った戦時教育から目覚めた。復員した若い教員が説いたのは平和憲法や男女同権。「女性も勉学や仕事に励む時代なんだ」と視界が開ける思いだった。

その後、恩師に勧められて英語教員の道へ。茨城大教育学部英文科に進学し、アメリカ人の女性教授宅で住み込みのメイドとして2年間働いた。教員免許を取得し、卒業から1年後、中学英語の教員として本採用された。

転機が訪れたのは1960年代後半。3カ月間の研修で米国を訪れ、「民主主義の実現を求めて沸騰するアメリカの現状を肌で感じた」と振り返る。

米国で目にしたのは、障害の有無に関係なく誰もが同じ教室で学ぶ姿。カリフォルニア州の街角では、反ベトナム戦争を訴えるヒッピーの歌声に耳を傾けた。互いの人権を尊重し、多様性を認める国の様子に大いに刺激を受けた。

日本の英語教育に対して疑問が芽生え、帰国後はキング牧師のスピーチ「私には夢がある」を和訳する勉強会に参加した。「私の4人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格の中身によって評価される国で暮らすという夢がある」-。日本の憲法が保障する「基本的人権の尊重」の核心を凝縮した文章だと感じた。

中学3年の教材に取り入れると、「胸がいっぱいになった」と声を震わせる生徒も。他にも英国のロック音楽を和訳したり、英文をグループで輪読したりと工夫を凝らした。

英語学習を通して他者を理解する心を育てようと奮闘してきた田添さん。「互いの人権を尊重し、情報を正しく理解する。この営みを次世代まで脈々とつなぐ必要がある」と言葉に力を込める。

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