閉鉄55年の森林鉄道、観光用列車で“復活”へ 深山で苔まといそびえる橋脚 尽力の住民ら感慨

山の中に残る橋脚。大部分が崩れたが、波賀森林鉄道の往時をしのばせる遺構だ=宍粟市波賀町音水

 兵庫県宍粟市波賀町音水(おんずい)の深緑に囲まれた山林。アマゴの泳ぐ川が流れ、鳥のさえずりがこだまする。そんな場所に不似合いな人工物がそびえ立つ。高さ約10メートルのコンクリートの橋脚。大部分が崩れ落ち、コケや草に覆われている。波賀森林鉄道(林鉄)が走っていた往時をしのばせる遺構だ。

 「これほど立派な遺構が残っているなんて、地元でも知られていなかった」。住民グループ「波賀元気づくりネットワーク協議会」会長の松本貞人さん(62)=同町上野=が感嘆する。

 大正から昭和にかけ、町内を走った林鉄。国有林から切り出したスギやヒノキなどを載せ、阪神間に届けた。最盛期は、運営していた大阪営林局(現・林野庁近畿中国森林管理局)のドル箱と呼ばれ、地元経済の主軸を担った。

 木材需要の拡大を受け、国による林鉄の建設が始まったのは1916年。その後は山々の谷筋に沿って、上野▽カンカケ▽赤西▽万ケ谷▽音水▽中音水-などの「路線」が整備され、昭和30年代初めには総延長が40キロ以上に達した。

 「地元にとっては、まさに生活の支えやったで」。そう振り返るのは、44年に15歳で国の営林署に就職した山木甚一さん(93)=同町。林鉄では事務職として給与管理や木材の検品などを担った。

 ほとんどの町民が林鉄に関わる仕事に就いていた。山中で伐採する「先山(さきやま)」や木を集める「木寄(きよ)せ」、材木を載せたトロッコ(トロ)を操作する「トロ乗り」のほか、機関車の修理工や大工、宿舎の給仕など多岐にわたった。

 「最初は犬や牛、馬。その後に機関車がトロを引くようになった」と山木さん。蒸気やディーゼルの機関車が運材台車を引く「鉄道」型と、機関車が走れない急斜面の奥で、台車の重さで下り坂を自走する「軌道」型があった。

 ほかにも、傾斜面のレール上を走る装置「インクライン」は高低差210メートルに上る区間も。一部では木材を載せたトロッコごとワイヤでつり上げ、ロープウエーのように空中輸送した。

 高い技術ではあったが、危険と隣り合わせの仕事だった。雨の日はトロッコが滑りやすく、脱線や転覆の事故で亡くなる人もいた。

 「危ない仕事やから、夫が元気に帰ってくるたびにほっとしたわ」。いずれも同町日ノ原の坂口ヤスヱさん(92)、坂口美栄子さん(86)、坂口康子さん(86)は林鉄作業員の妻だ。

 3人が子どもの頃は、線路に耳をくっつけて遠くを走るトロッコの音を聞いて遊んだり、学校の授業の一環でレールの草引きをしたり。祝日や休日は地元住民の生活の足にもなり、坂口さんたちは「トロに乗って街中に映画を見に出かけたなあ」と笑う。

 当時は機関車が通ると、おおむねの時刻が分かり、子どもたちはトロ乗りに元気よく手を振った。林鉄は日常の一部だった。

 長く地元の発展を支えた林鉄。だが、木材の運送手段は次第に安全性の高いトラックに代わり、58年以降、各路線が次々と廃止されていった。

 唯一残っていた中音水線では、トロッコ十数台が山中を走っていたが、68年7月15日に運行を終了。閉鉄式では機関車が警笛を鳴らしながらトロッコ3両とともに山を下り、半世紀の歴史に幕を下ろした。

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 閉鉄から55年。波賀森林鉄道が8月26日、宍粟市波賀町上野のフォレストステーション波賀で、観光用列車として再び運行を始める。尽力したのは住民団体「波賀元気づくりネットワーク協議会」。1円の利益にもならない活動だが、メンバーの目は子どものように輝く。復活の軌跡を追った。 (村上晃宏)

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