瀬戸内の離島に朝鮮学校があった… 戦後に全国唯一、在日コリアンと日本人が一緒に学ぶ 兵庫・家島

舞台「五十四の瞳」初演の一場面(文学座提供、宮川舞子さん撮影)

 瀬戸内海に浮かぶ兵庫県姫路市の家島諸島に戦後、朝鮮学校があった。専門家によると、全国で唯一、在日コリアンと日本人が一緒に学んだ学校だったという。9月2日には、姫路出身の劇作家・鄭義信(チョン・ウィシン)さん(66)が同校をモデルに書き上げた舞台「五十四の瞳」が同市で上演される。8月26日には鄭さんらが、当時の時代背景を語る会も催される。

 家島諸島の西島には1947~69年、朝鮮初級学校があった。地元に資料は残っていないが、姫路市出身で元朝鮮大学校教員の金徳龍さん(71)=東京都=が自著「朝鮮学校の戦後史」(社会評論社刊)で取り上げている。

 金さんが通っていた西播朝鮮初中級学校(姫路市)には西島出身の同級生がおり、島に行ったこともあるという。自身の記憶や同校の元教員への聞き取り、朝鮮人組織などの資料を基に調べた。

 金さんによると、長く無人だった西島には、1925年ごろから採石業で生計を立てる朝鮮人が移り住み、終戦時には100戸前後の集落になっていた。日本人も住んでいたという。

 住民らが46年、朝鮮語を学ぶ講習所をつくり、翌年から学校になった。48年に通っていた27人のうち5人は日本人だったといい、金さんは「おそらく日本人を受け入れ、朝鮮人と同じ屋根の下で学んだ事例は同校が唯一」とする。

 島内にはほかに学校がなく、家島本島に通う船便も当時はなかったため、日本人側から強い要望があったとみられるという。

 連合国軍総司令部(GHQ)と政府の意向で、49年に朝鮮学校閉鎖令が出された後も存続。新校舎を建設した際は、国籍に関係なく島民が工事を手伝った。学校は島に朝鮮人児童がいなくなった69年春まで続いた。

 「五十四の瞳」は朝鮮人と日本人が机を並べる島の学校を舞台に、戦後の混乱期を生きる教師や子どもたち、島民の姿を描く。文学座が2020年11月、東京で初めて上演し、今回は国宝姫路城の世界文化遺産登録30周年などを記念して企画された。

 金さんは「人々の記憶から消えかかっていた小さな物語を舞台化した人がいたんだという驚き、うれしさを感じた。今の日本の社会に一石を投じるきっかけになれば」と語る。

 「五十四の瞳」は9月2日午後2時、アクリエひめじ(姫路市神屋町)で開演。一般3千円、高校生以下千円。関連イベントは8月26日午後2時から同市市民会館(同市総社本町)で。先着100人、参加費500円。姫路キャスパホールTEL079.284.5806 (上杉順子)

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